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『宗報』2007(平成19)8月号(本願寺出版社発行)掲載

本願寺境内の埋蔵文化財情報(4)

平安時代の痕跡

本願寺移転前は「東市」

 京都市内の中心部は、794年(延暦13)に遷都された平安京の遺跡と重なっています。その規模は、東西約4.7キロメートル、南北約5.6キロメートルで、東は現在の寺町通(どおり)、西は葛野大路(かどのおおじ)と天神川(てんじんがわ)通の間、南は九条通、北は一条通に囲まれた地域にほぼ一致します。現在の千本(せんぼん)通が朱雀大路(すざくおおじ)と呼ばれるメインストリートと重なり、千本丸太町(まるたまち)の交差点一帯が、天皇の住まいや役所などがあった平安宮(へいあんきゅう)の場所です。平安京は朱雀大路を軸として、左右対称に設計され、五重の塔で知られる東寺(とうじ)に対して西寺(さいじ)がありました。そのほか、海外からの使節を接待する鴻臚館(こうろかん)や市場も東西に造られていました。

 本願寺は1591年(天正19)年に豊臣秀吉から土地を寄進され、現在の堀川七条坊門の土地に移転します。では、それ以前は何があったのでしょうか。境内では、平安時代からの遺構が確認されています。朱雀大路より東に位置していたことから、「東市(ひがしいち)」と呼ばれる市場があったと考えられています。平安京遷都当初から官営の市場として設けられ、市司(いちのつかさ)によって管理・運営が行われていました。平安時代中期に編集された法令集である『延喜式(えんぎしき)』には、東西両市の開催日や独占販売品目だけではなく、店の数まで定められていました。当初、四町分の敷地(現、本願寺境内南半分と興正寺や龍谷大学の範囲に相当。一町は約120メートル四方)でしたが、10世紀にはその四辺がさらに二町ずつ拡張し、正十字形の敷地となりました。その結果、市の範囲は合わせて一二町を占め、繁栄していった様子が窺(うかが)えます。なお、拡張した八町分は、「外町(そとまち)」と呼ばれました。

 その後、律令制の衰(おとろ)えとともに、一般の人びとも商売を行えるようになるなど、東市の専売は徐々に失われていきます。平安時代後期または鎌倉時代初期までは官営市場として存続していたと考えられていますが、鎌倉時代以降、七条町や四条町といった新しい町が形成される中で市の解体が始まりました。絵図によれば、このころの東市跡の一部では、空也上人(くうやしょうにん)を念仏の開基とした堂が建てられ(『東市町正応五年前図』1292〈正応5〉年)、一遍上人(いっぺんしょうにん)が踊屋(おどりや)を建てて踊り念仏を興行していた(『一遍上人絵伝』鎌倉時代後期)ようです。鎌倉時代後期ごろに天台宗から改宗した市屋(いちや)道場金光寺(こんこうじ)という時宗寺院や、東市町の守護神として祭られた市姫(いちひめ)神社などが、本願寺移転時まで存続していました。

東市遺構を発見

 昨年の12月、『宗報』5月号で紹介した大正時代のテニスコート発見場所から、東へ数メートルの場所で、東市跡に関係すると考えられる遺構(いこう)が発見されました(写真1、図1)。西側に位置する古い方の側溝は、幅約1.6メートルで、西側の縁から0.5メートルほど東の地点で急に約0.4メートル深くなり、検出面からの最深は約0.6メートルです。平安時代のものであることはわかっていますが、詳細な時期は不明です。


写真1 猪隈小路西側溝と柱穴跡(東から)

写真1 猪隈小路西側溝と柱穴跡(東から)

図1 調査区平面図(1:100)

図1 調査区平面図(1:100)


 もう一方の側溝は平安時代末のもので、最大幅約2メートル、深さは0.1〜0.5メートル、溝底は西から東に向かって緩(ゆる)やかに浅くなっています。この溝の東端の底付近では、直径20センチ前後の石を数個見つけました。これらの石に規則性は認められませんでしたが、石の下に溝の堆積土があったことや、平らな面を上にして置かれていることから、自然のものではなく、溝を渡る際の踏み石であったのではないかと考えられています。

 そのほか、側溝の西側では、平安時代の平瓦や石を柱の基礎として入れた柱穴跡(直径約0.2〜0.5メートル)を数基発見しました。また、その後の今年3月には、この調査地点のすぐ南側で、側溝や井戸を発見しました(写真2、図1)。調査区西側の側溝は幅2メートル以上、深さ0.1〜0.2メートルの平安時代末から鎌倉時代初頭のもので、西に向かって緩やかに深くなっています。東側の鎌倉時代の側溝は、幅1.1メートル以上、深さ約0.1メートルです。西側の側溝の北端には、直径1.6メートル前後の室町時代のものと考えられる井戸があります。


写真2 平安時代末から鎌倉時代の猪隈小路西側溝(北東から)

写真2 平安時代末から鎌倉時代の猪隈小路西側溝(北東から)


猪隈小路西側溝と判明

 これらの南北溝は、平安京条坊復元図(図2)に照らし合わせた結果、猪隈小路(いのくまこうじ)の西側溝であることがわかりました。猪隈小路とは、東市の中心を南北に通っていた道路で、幅が約12メートルあったと考えられています。このような道路には、排水用の側溝と宅地とを区切る築地塀(ついじべい)が道路の両端に設けられていました。今回は築地塀と考えられる痕跡(こんせき)は見つかっていませんが、側溝の西側で見つかった柱穴跡が築地の中心柱跡であった可能性もあります。

 南調査区と北調査区で発見したそれぞれの側溝は、時代や時期によって、その位置が少しずつ動いています。この理由は、「排水溝」であることに起因しています。溝は使用しているうちに、流れによって運ばれた土やゴミが堆積することで、溝底が高くなっていきます。水が滞留するところも現れます。そうなると、少しの降雨でも、溝から水が溢(あふ)れ、場所によっては、溝の形や流路そのものが変わってしまいます。特に、今回発見したような溝は、素掘りであることからもその影響は大きかったでしょう。


図2 平安京条坊復元図と調査区位置図 (太枠内が東市・東市外町跡。)

図2 平安京条坊復元図と調査区位置図 (太枠内が東市・東市外町跡。)


 このように、溝幅が自然に変わることもありますが、堆積土を取り除くために、溝を掘り直すことも行われており、その際に溝幅だけではなく深さや位置も変わっていったと考えられます。

 室町時代のものと考えられる井戸が、平安時代末ごろの側溝を壊して造られていることからは、宅地が道路側へ拡張していく様子がわかります。宅地が広い方がよいと思うのは、当時の人たちも同じであったようで、平安時代も終末に近づくころから、宅地の路面への進出が始まります。

 このように、平安時代から室町時代の遺構を発見しましたが、今までの調査例を合わせても、東市一町分には足らず、市の様相はよくわからないのが現状です。鎌倉時代に描かれたとされる『一遍上人絵伝』を見ると、板葺きの家屋に加え、「踊屋」や「桟敷(さじき)」という簡単な掘建柱建物も描かれており、遺構として発見することが難しい建物もあります。

 今後、本願寺境内を調査する中で道路側溝や路面に限らず、このような簡易建物を見つけることができれば、東市や東市外町の土地利用の変遷も明らかにすることができるでしょう。

((財)京都市埋蔵文化財研究所)


本願寺御影堂平成大修復推進事務所だより(91)
『宗報』2007(平成19)8月号(本願寺出版社発行)掲載
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下がり藤
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