本願寺御影堂平成大修復推進事務所だより(1) 『宗報』1999(平成11)年5月号掲載

初期の御影堂

豊原 大成

(一)

 覚如上人御執筆の『善信聖人絵』(本願寺本)や『善信聖人親鸞伝絵』(高田本)、あるいは『本願寺聖人親鸞伝絵』(流布本)によれば、弘長二年(1262)十一月二十八日、親鸞聖人が御往生になると、(遺弟たちは)遥かに加茂川を渡って東山・延仁寺に於て御遺体を荼毘に附し、御遺骨は、鳥辺野の北、大谷に納め奉った。十年後の文永九年(1272)冬、同地より西、吉水の北の辺に、佛(堂)閣を建て、御遺骨をお移しし、(聖人の)影像を御安置した、とある。なお『教行信証』奥書によれば、御荼毘は二十九日、御収骨は三十日だった。
 また江戸時代の学僧玄智編の『本願寺通紀』巻一には、同年十二月六日に門人たちが碑を立て、翌年九月、御子息印信が碑の側に十三重塔を立てたとある。『本願寺本』には右奥に多重搭が画かれ、『高田本』では同じものを「十三重の塔婆是也」と書き込んでいる。それはともかくとして、右の御送葬ないしは御影像安置に関し、『流布本』では、三十数名の僧俗の遺弟による葬送と二十余名による荼毘の光景、次の段では六角の廟堂に聖人の坐像が安置され、前に火舎・華瓶などによる荘厳、後代の『流布本』には真鍮鶴亀式三具足の荘厳が画かれている。
 しかし『本願寺本』では可成り異なっていて、送葬は十九名、荼毘の場面では僅かに八名の僧形のみを画く。のみならず、同じ紙画の左方(一場多景形式で、左景は後時を意味する)には、急勾配の狭い石段のある懸崖の上に、簡素な木(竹?)柵に囲まれ、笠石と宝珠らしいものを載せた細い竿石の墓碑、いわゆる笠塔婆が画かれている。また次の段では六角の廟堂の中には祖像は無く、さきに懸崖上の柵内にあった石碑が中央に立てられている。

(註) 本願寺本および高田本=覚如上人御齢二十六歳、永仁三年(1295)御作の原本完成直後の写し
  流布本=覚如上人御齢七14歳、康永二年(1343)の改訂増補版の系統

(二)

上記のことによって以下のことが伺える。

(1) 聖人の墳墓は、前に石段のある崖の上にまず建立され、幾つかの点で、後述の恵心僧都源信和尚の墓碑に通じるものがある。
(2) 六角の廟堂には、文永九年(1272)の建立当初から少くとも『本願寺本』制作時の永仁三年ごろまでは〝影像〟ではなく石碑が安置されていた。なお、御遺骨は廟堂の「床下の亀腹の真中辺りに埋葬」されたであろうとの推定が為されている。(光森正士『親鸞聖人の遷化をめぐって』)

 但し、『本願寺本』より僅か五十日余日遅れて模写された高田本では、堂内の石碑を前にして曲彔に坐す聖人像が描かれている。これについて、「佛会法事の場合に影像を安置する程度であった」(宮崎円遵『親鸞聖人伝絵諸本の成立と照顕寺本』)とか、「創建の当初から影堂を意図した堂舎として、その壁面には聖人の影像がかけられていたと思われる」(千葉乗隆『本願寺ものがたり』)などの推測も為されている。

 これらによって、更に次の如き事柄を推測することが出来るであろう。

(3) 廟堂(身舎)の大きさは一辺が約一間(六尺=180センチ)と見做されるから、然らば絵の様子から石碑の高さは五尺(=150センチ)程度と思われる。

 叡山・横川の般若谷にある源信和尚の墓碑は谷間の道路から幅約1メートル、五十五段の急な石段を上ったところにあり(前に背丈よりやや高い程度の石の鳥居がある)、玉垣で囲まれ、反蓮弁形の基部から笠石上の宝珠を含め、総高約五尺、同じ横川にある良源、覚超ら、歴史に残る高僧の墓より一段と立派で、すぐ傍の凹地や斜面には、和尚を慕うかのように、後代の大僧正、大僧都たちの墓碑が百基ばかりある。
 聖人の墳墓が簡素だったことは事実であろうが、庶民の遺体の多くが棄葬(風葬、水葬)された時代に、曽つて平安盛期の貴顕に知られ、尊敬された大学僧、源信和尚の墓に酷似する墓碑が少数の遺弟たちによって建立されたことは、いわば無位無冠、市井の聖にすぎなかった聖人に対する彼等の敬慕が如何に大きかったかを示すものである。遺弟たちは、予じめ横川の念仏者の墓式について知っていたのだろうか。若しかしたら聖人の墓碑建立に當たって和尚の墓を見学・調査するため態々横川に赴いたのかもしれない。また、最初の墓碑が廟堂(現在の崇泰院の境内地)よりも東の懸崖上に在ったことは、法然上人が建暦二年(1212)御逝去の直後、その住房(現在の知恩院勢至堂の位置か)の東の崖の上の平地、つまり今の御廟の場所に葬られたと言われるから、聖人の墳墓が上人の御墓だった場所の極く近くに建てられたことがわかる。これによって、遺弟たちが源信和尚や元祖上人に対する祖師聖人のお心を汲んだ、いわば師資四代に係わる心情が如何に深厚だったかを偲ぶことができる。この心情が聖人の御一流の以後の発展の大きな原動力と言って過言ではあるまい。
 しかし遺弟たちはこれに満足せず、墓碑のために更に廟堂を建て、後に祖像さえも造顕して堂内に安置した。云うまでもなく、これが現在の御影堂の、そもそもの起源であり、当時を偲ぶにつけても、やがて聖人の七百五十回忌を迎えんとする我々「遺弟の念力」を、このたびの御影堂平成大修復のために結集しなければならないと思う。

(三)

 猶、延慶二年(1309)に惹起した唯善騒動により、廟堂も石碑も破壊された。その後、応長元年(1311)に影堂は再建されるが(この際の影堂の形式は不明)、建武三年(1336)、足利尊氏の兵火によって回禄、暦応元年(1338)、銭三十六貫文で古い堂舎を買取って影堂としたという。しかし恐らくは、これは六角堂ではなく、通常の、つまり方形の建築だったであろうと言われている。この影堂は蓮如上人の父君、存如上人による永享十一年(1439)頃の改築まで、丁度百年間、御堂としての務めを果たしていたと考えられる。

(総長)
※筆者肩書きは『宗報』掲載当時のものです

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