み教えについて 浄土真宗の教えや歴史について
ホーム > み教えについて > みんなの法話 > 薔薇(ばら)とトゲ

薔薇(ばら)とトゲ

本願寺新報 2009(平成21)年2月20日号掲載
日置 宗明(ひおき むねあき)(布教使)

「1月15日はご本山に」


カット 林 義明

ことしも1月9日から16日まで、京都のご本山で御正忌(ごしょうき)報恩講法要が営まれました。私にとっては、三重のお寺に養子に入って初めて迎えるご本山の御正忌。おかげさまで15日には家族そろって参拝させていただくことができました。

親鸞さまのご法事をご縁に、ご門主さまのご親教(法話)に遇わせていただくことはやはり有り難いものです。

大阪の実家の寺では毎年1月15日、門信徒の皆さんとご本山にお参りするのが決まりでした。正午に現地集合。これも例年の決まりです。大逮夜(おおたいや)法要が始まるまで2時間もありますが、こんなに早く集まるのには理由があります。

早めにお御(み)堂に入り、なるべく前の方でご門主さまのご親教をお聞かせいただくためです。ギリギリに行くとお御堂に入れなくなることもありますからね。

みんなで集まり、記念写真や懇志の受け付けを済ませてお御堂に入ると、だいたい帰敬式(おかみそり)が始まる頃です。この時間に入るのがツウなんです。

なぜなら帰敬式が終わると、おかみそりを受けた方々が退堂され、前のあたりにポッカリ大きな空間が空(あ)きます。その場所をキープするために、結界(けっかい 木製の柵)が取り外されるのを待つというわけです。

お恥ずかしいことで…

ある年のことです。いつものように帰敬式が行われているお御堂で、おかみそりが終わるのを、今か、今かと待っていました。全国からお参りされた沢山(たくさん)のお同行も、私たちと同じように結界の後ろで臨戦態勢です。

ところがその年は、ここからがすごかったのです。帰敬式が終わった途端に、一人のお同行が結界を乗り越えてしまったのです。ダァーッと走り出すと、そこからはアッという間でした。つられるようにみんなが結界を踏み倒し、前の方にドドッと流れ込みました。私が呆気(あっけ)にとられていると、どこからともなく「お恥ずかしいことですなぁ」と聞こえてきました。

そのとき私は、父から聞いた祖父の言葉を思い出しました。

父が今の私より若く、まだ行信教校(ぎょうしんきょうこう 僧侶育成学校)の学生だった頃の話です。毎年5月の専精舎(せんしょうしゃ)という行事には、全国からたくさんのお同行が集まります。父はそのお世話をする係だったのですが、その年は用意したせんべい布団では足りず、近所のご門徒さんから布団をいくつか借りたのです。

ところが借りた布団はフカフカの客布団。月とスッポンです。困った父は、薄っぺらい布団とフカフカの布団をバラバラに置き、奥から詰めてもらうことにしました。

しかし、案内されたお同行は、われ先にと上等な布団から占領してしまったのです。あきれた父は嫌みを言うように、校長であった祖父に言いました。

「あれほど〝有り難い〟〝もったいない〟と喜んでいる人たちやのに、真っ先にきれいな布団から埋まるんやで」

その時、祖父はこう答えました。

「バラの花はきれいだがトゲがある、というのが世間の見方。

こんなトゲだらけの木に何と美しい花が咲くものよ、と見るのが浄土真宗の見方じゃ」

トゲだらけの私の上に

…御正忌の大逮夜法要が始まると、結界を越えて走り出したお同行たちから、お念仏の声がこぼれてきます。その声はお御堂いっぱいに広がりあふれました。私は祖父の言葉をあらためて味わいました。

と同時に、走り出さず立ち止まった自分の方が、少しマシだと思っていたことに気付かされました。トゲだらけの私の上に咲いてくださったお念仏の花でした。

「しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰(おお)せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけり」

(歎異抄、註釈版聖典836ページ)

〈阿弥陀さまは私たちのことを最初からお見抜きになったうえで〝煩悩具足の凡夫〟であるとおっしゃっているのですから、ご本願はこのような私たちのためのものです〉

御正忌報恩講の有り難い思い出です。