いつでも どこでも だれでも
西光 義秀(さいこう ぎしゅう)(奈良・万行寺住職)
"ほんとう"が見えない
カット 林 義明
人の歴史を振り返ってみますと、国家や権力者、あるいは役人などの命令や指導に従い、人々が一様な生き方を強いられる時代が長く続いていました。
しかし、先の大戦での敗戦をへて、現代の日本社会では、一人ひとりの個性が大切にされ、それぞれの違いを尊重しようという傾向が強くなってきました。そして人々の価値観も多様化しています。それは、豊かな社会の反映であるとも言われています。
そんな豊かになったはずの世の中で、いったい何を頼りにしたらよいのか、何がほんとうのことなのか...、と混乱している人たちが急増しているのではないでしょうか。そんな社会の現状を感ぜずにはおれません。
今からおよそ2500年前に、日本から遠く離れたインドで、仏さまの教えが説かれました。そして今、時代も地域も文化も伝統もまったく異なる現代の日本で、あるいはアメリカやヨーロッパでも、仏さまの教えによって、ほんとうのことに気付き、めざめる人たちがたくさんおられます。
仏さまの教えが私たちに示してくださっているのは、"ほんとうのこと"です。ほんとうのこととは、「いつでも」「どこでも」「だれにでも」通用することです。
「いつでも」というのは、昔も今も変わらずに通用するということです。科学技術が進み、人の暮らし方や考え方がガラリと変わるかもしれない未来であっても通用することです。日本のどの都市やムラでも、インドでもアメリカでもヨーロッパなどどの国でも変わらずにあてはまるから「どこでも」です。さらに、人種も性別も年齢も関係なく、仏法にご縁のある人にもない人にも関係なく該当するから「だれにでも」ということなのです。
"他人事"の老病死
私はこれまで数え切れないほどの人たちの死に出遇(あ)い、たくさんのお葬式に参列させてもらいました。お世話になった先輩や親しい友人の死、さらに生活をともにした地域社会の人たちや身近な親族の死は、深い悲しみとともに、人生の無常を知らされてきました。
『歎異抄』には、
「ひとのいのちは、出づる息、入(い)るほどをまたずしてをはる」
(註釈版聖典848ページ)
また「御文章」には、
「まことにもつて人間は、出づる息は入(い)るをまたぬならひなり」(同・1117ページ)と示されています。
人間が老い、病み、死んでいくということはよく知っているのですが、身近な人が老い、病み、亡くなっていかれるたびに驚かずにはおれません。どれだけ老病死の知識を身につけても、何回老病死についての話を聞いても、その現実と向き合っていない自分の生き方に気付かされます。自分自身の老いや病みや死については、正面から見つめることもなく、逃げ腰で日暮らししていることを思い知らされるのです。
いつでも、どこでも、だれにでも、あてはまる仏さまの教えは、「いつか」「どこかで」「だれかが」というふうにしか聞いておらず、他人事になってしまっているのです。
しかし阿弥陀さまは、そんな私の態度や聞き方を嘆かれることなく、あきらめることなくほんとうのことを示し続けてくださっています。
念仏申すべきものなり
阿弥陀さまの願いは一切衆生にかけられています。「いつでも」「どこでも」「だれにでも」かけられている願いです。それは漠然としたものではありません。「いま」「ここ」にいる「わたし」にかけられ、はたらき続けてくださる願いなのです。
煩悩だらけ、我執(がしゅう)いっぱいにしか生きることができないありのままの私のすべてを見通し、その私にまちがいのない阿弥陀さまの願いがかけられているのです。その願いを受けられた蓮如上人は、ご門徒の方々へのお手紙の中で、再三にわたって称名念仏すべきことを示されています。
何よりも、"わが名を称えよ"と阿弥陀さまがよび続けられ、願い続けられているのです。そのおこころを、とことんまで聞かせていただくのが聴聞なのです。










