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あの時 君は若かった?

本願寺新報 2009(平成21)年5月1日号掲載
末澤 真吾(すえざわ しんご)(香川・真教寺住職)

思い通りにならない


カット 林 義明

「ご住職はいいですねぇ、お若くて。私みたいに年を取っちゃうとダメですねぇ」

ご門徒さんとお話ししていると、時々こう言われることがあります。もう少しで50に手が届こうとしている私ですが、人生の大先輩からすれば確かに〝若い〟のでしょう。

そんな時、私はちょっと意地悪くたずねてみるのです。

「でも、かつては私の年と同じ時がおありでしたね。その時、やっぱり若くていいなぁとお感じになっていましたか?」

すると、たいていは曖昧(あいまい)な返事が返ってきます。きっと、その時は当たり前だったんですね。

私たちは自らの人生を自分なりに精いっぱい生きています。その人生の中で、それぞれ幸せを求め、それを成すために努力もしています。お金持ちになりたいとか、自由な時間をもっと持ちたいとか、健康でありたい、長生きしたいなど、さまざまです。それは現実の生活を営む中では大切なことだと思います。

しかし、努力をすればすべて思い通りになるかといえば、そうもいかないのが現実です。社会に暮らし、人との関(かか)わりの中で生活を営んでいると、思いもよらない出来事が起こりますし、どんなに平穏に暮らしていても年とともに少しずつ心身ともに衰えてきます。そして必ず人生の幕切れを迎えなければなりません。時には何のための人生なんだろうと疑問を持つこともあるでしょう。

老若男女を問わない

お釈迦さまは「人生は苦なり」と言われました。生きていくことはなかなか思い通りにはならないと・・・。では、どうすればいいのでしょうか。

あきらめるわけにもいかないし、どちらかといえば嫌なこと、特に老いることとか、死ぬこととかは見ないように、聞かないように何とかごまかしていたいようです。中年の方に年齢を聞くといい顔をされませんし、老人会で老いや死の話をするのはなかなか難しいです。

私たちは人生の経験や社会生活の中で学んできたことを基に自らの価値観をつくり、その価値観で幸せとか不幸とかを判断しています。その価値観の中でいのちをとらえ、若くて元気なことは素晴らしいこと、年を重ね衰えて死んでいくことは、つまらないこと、不幸なことだと判断しています。

親鸞聖人は、我が身に訪れるさまざまの現実をお念仏とともに受け止め、力強く生き抜かれました。それは阿弥陀さまの願いを聞き、人生の指針として受け止めていくことです。

阿弥陀さまは、いのちあるものすべてを慈しみ優しく抱いてくださいます。そして、すべてのいのちは尊く光り輝いているとおっしゃいます。男女を問わず、老若を問わず、貧富を問わず、すべてのいのちは、そのいのちにしかない輝きを持っているとおっしゃいます。それはまた、人生のどんな出来事も意味があるということでもありましょう。

生と死を超える道

最近、両親がとても体のことを気にかけています。特に食べ物や運動のことに関心を持っているようです。もちろん衰えを止めることはできません。しかし、今のコンディションを少しでも維持しようと頑張っています。私は「いただいたいのちを大切にしてるなぁ」と思いました。と同時に、生きていることは当たり前ではない、老いを感じてはじめて味わえる世界があることを教えられているように感じました。

人は必ず自らの人生を終えていかねばなりません。生きようと思っても生きられるものではありません。

お念仏申すということは、阿弥陀さまがいつも側に寄り添い支えてくださり、いつどこでどのようにいのち終わろうとも、新たなるさとりの世界に迎え入れてくださる。そういう身を今いただく。決して終わってしまういのちではありません。そこに生と死を超えていく限りないいのちへの道が開けてくるのです。

誰にも代わってもらうことのできないこの人生、み教えに耳を傾けながら、私の人生には意味のないものは一つもないんだと教えてくださる南無阿弥陀仏とともに、精いっぱい生き抜かせていただきたいものです。