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親と子は同い年

本願寺新報 2009(平成21)年6月10日号掲載
前田 壽雄(まえだ ひさお)(教学伝道研究センター東京支所研究員)

初めての子育て


カット 林 義明

今年の初めに長男が誕生し、親にならせていただきました。親に「なりました」ではなく、「ならせていただきました」と表現したのは、子どもが生まれてこなければ、親になることができなかったからです。

先日、お世話になっている方から「お子さんと親は同い年です。お互いに学び合いましょう」という言葉をいただきました。これから子どもを育てていく過程において、親子が苦楽を共にすることによって、本当の親にならせていただき、本当の子どもになっていくのだと思いを新たにしました。それと同時に、子育てを経験して初めて、両親が自分にしてくれたことへの有り難さに気付かされました。

生きる意味と方向性

生まれてきたばかりの赤ちゃんはよく眠ります。すやすやと眠ることで、すくすくと育つのでしょう。わが子は、まだ立つことも座ることもできませんが、あくびをしたり、両手を上にあげて手足を動かしたり、いろいろなしぐさを見せてくれます。

また赤ちゃんは、自分の状態をまわりへ訴えようとして、声の質や強弱を変えて泣きつづけます。夜中であろうと時間に関係なく泣くため、親は睡眠不足になりがちです。そのためこれまで築いてきた生活のリズムは崩れ、わが子に対して「早く泣きやんでほしい」「夜中に起きなければいいのに」などといらだち、ついつい愚痴(ぐち)をこぼしてしまいます。

さらに夫婦二人が向き合って子育てをしているつもりでも、「一生懸命頑張っているのに」「こんなに我慢しているのに」などと、お互い誤解や思いのすれ違いが生じたりもします。そのようなときは、たいてい自分の思いを、一方的に相手に押しつけているものです。相手と向き合い、相手の立場に立っているつもりでも、実際には自分の都合に合わせて物事を判断してしまっているのです。

自分の思い通りに生きようとすると、必ず思い通りにはならないという苦しみが生まれてきます。したがって、お互いが向き合うだけでは十分ではなく、そろって同じ方向を向いて歩んでいくことが大切なのです。それは私たちに、生きることの意味と、その方向性をお教えくださる阿弥陀如来に向き合うことで気付かされることです。

いつでもどこでも

浄土真宗のみ教えでは、阿弥陀如来と私たちの関係を考えるとき、阿弥陀如来を「親」に、私たちを「子」にたとえることがあります。親にならせていただき、身をもってその意味に気付かされます。

それはわが子が妻のおなかの中にいるときから感じられることでした。わが子の誕生を今か今かと待ち遠しく、おなかに向かって話しかけたり、あいさつをしたりしたものです。親は子どもが生まれる前から、子どものことを大切に思うものであると実感する中に、阿弥陀如来が私たちをわが子のように、かけがえのない大切な存在として見守ってくださっていることが重なってきました。

浄土真宗のなじみの深いおつとめである「讃仏偈(さんぶつげ)」は「忍終不悔(にんじゅふけ)」という言葉で結ばれています。「忍終不悔」とは、阿弥陀如来が法蔵(ほうぞう)菩薩として修行されていたとき、たとえどのような辛(つら)い苦労があったとしても、自分の修行は決して悔いることのないものにしよう、という堅い決意を宣言されたものです。これは阿弥陀如来が私たちの親になるという決意です。この決意を支えるのは、生きとし生けるものすべてを迷いから救いたいという深い願いです。

さらに親は子どもがたとえどこにいたとしても、いつでも子どものことを心配しています。また、親は子どもから「どうか私を育ててください」と頼まれなくても、子育てをしています。

お念仏申すことは、このような親子の関係と同じようなものです。阿弥陀如来は常に私たちを心配し、「必ず救う、私(阿弥陀如来)にまかせなさい」とよびかけておられます。そのよび声は、私たちが阿弥陀如来に対して、「どうか助けてください」とお願いしなくてもはたらきかけてくださるものです。

阿弥陀如来のよび声に対する、「おまかせします」という私たちの信心は、「南無阿弥陀仏」がはたらいているということなのです。