〝ねんね〟の50回忌
阪本 尚樹(さかもと なおき)(布教使)
その話 何度も聞いた
カット 林 義明
「阿弥陀さまのおかげやなぁ」
私が得度をして僧侶になったた時も、布教使になった時も、私の頑張りではなく、阿弥陀さまのおかげを忘れない祖母。そんな祖母が、私が幼い頃、昔を懐かしむように、よく戦争の話をしてくれました。
防空壕で息を潜めたこと・・・、落ちてくる焼夷弾(しょういだん)をかいくぐって逃げたこと・・・。祖母が話し出すといつしか同じ戦争の話になります。会うたびに聞かされて、いい加減に飽きてきた私は、ある日、「おばあちゃん、その話は何度も聞いた。もういいよ」と言ってしまいました。寂しそうな顔をした祖母は、それきり戦争の話を口にしなくなりました。
祖母と会うこともほとんどなくなった20歳の頃、私は京都で仏教の勉強をしていました。そんなある日、下宿先に祖母から1本の電話がありました。内容は「ねんねの50回忌の法事をお願いしたい」というものでした。そう、祖母は戦争の頃、生まれてすぐの娘を亡くしていたのです。50年経っても「ねんね」と呼ぶ祖母。時間が50年前のまま止まっているようでした。
祖母は戦争の話をよくしてくれましたが、子どもを亡くしている話は、一度も聞いたことがありませんでした。あまりにつらい思い出で、話すことができなかったのでしょう。祖母は戦争の話をしながら、語り得ない悲しみを語っていたのです。それを私は「何度も聞いた」と言ってしまったのです。
人を恨み、恨まれて
法事の日、この時ばかりは祖母の語り得なかった悲しみを聞いてあげようと思いました。
「おばあちゃん、子どもを亡くしてたなんて知らなかったよ」
私がそう言うと、祖母は涙ながらに50年前のことを話し出しました。
当時は食べる物が無く、母乳が出なかったこと。粉ミルクもない時代、お乳を分けてもらいに近所中をまわったこと。やせ細った赤子を抱えて、頭を下げてまわっても、にべもなく断られたこと・・・。
「私はそれを心から恨(うら)んだ・・・死にそうな子を目の前に断るなんて、人間ではないと恨んだ・・・」
当時の感情が口をついて出てきます。そしてふと「私も人から恨まれただろうなぁ・・・」と祖母がもらしました。
聞けば、近所の人が同じように自分の家にもお乳をもらいに来てたのに、それを自分も断っていたと言うのです。そして祖母は「私は自分のことしか考えられない罪深い人間だ。私は地獄に堕(お)ちるようなあさましい人間なんだ」と言って泣き崩れました。
私は「戦争の時だから仕方がなかったんだよ・・・。周りの人も同じだったんだから・・・」と、祖母をなぐさめました。
しかし、祖母は「いや、私は罪深い」と言って聞きません。それ以上、祖母をなぐさめる言葉が見つからず、法事をはじめました。
ごまかしのない人生
お経をあげていると、後ろで祖母はお念仏しながら、「ねんねごめんね。あんた一人を育てることもできなかった・・・。人様を恨んで、人様に恨まれて、私は罪深い・・・」と泣いています。
私はよっぽど「もう自分を責めないで」と言おうと思いましたが、そのままお経を続けました。すると、祖母の言葉が少しずつ変わってきます。
さっきまでは「私は罪深い」と言っていた祖母の口から、「もったいない」という言葉が何度も出てきました。そして祖母は「あー、この私を目当ての阿弥陀さま。なんともったいない、有り難い」と言ってお念仏を喜びだしたのです。
私は祖母に対して、「戦争の時だったんだから・・・」とか、「周りの人も・・・」とか、時代のせいにしたり、人と比べて祖母をなぐさめようとしていました。
しかし、祖母は、自分自身の人生をごまかさずに引き受けて「私は罪深い」と言い切っていたのでした。そして、そう言い切ることができたのは、「この私を目当ての阿弥陀さま」に出遇(あ)っていたからでした。
「私は罪深い」という祖母の言葉は、「決してあなたを見捨てない」という阿弥陀さまのお慈悲を味わっていた言葉でした。そのお慈悲の中を、自分を見捨てずごまかさずに生き抜く念仏者の姿を、祖母はその身で教えてくれていたのです。










