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仏さまの名のり

本願寺新報 2009(平成21)年9月1日号掲載
尾寺 俊水(おでら しゅんすい)(山口・清徳寺住職)

ここにいるぞ


カット 林 義明

親鸞聖人は「南無阿弥陀仏」という如来を名号という言葉で明かされています。名号(みょうごう)という字は、名前の名という字が使われています。名という字は夕(三日月)に口と書きます。薄暗い中、相手の姿の輪郭は見えますが、誰であるか判別しにくい時、"私は井上です""私は佐藤です"と、自分の口で自分の名前を告げ、相手に存在を知らせるという意味が込められています。

「南無阿弥陀仏」は、私の口を通して阿弥陀仏ご自身の名のりをしてくださる。親鸞聖人はこのことを阿弥陀仏の喚(よ)び声と教えてくださり、「ここに阿弥陀仏がついているぞ。あなたを必ず浄土につれていく阿弥陀仏がここについているから、安心してくれ」と、私を喚び続けてくださっているといわれます。

ドロドロの牛乳

私の住まいは山口県の山間部です。ご門徒のお参りに行きますと、お茶代わりによく、沸かしたての牛乳が出てきます。もちろん地元でとれた牛乳です。

「ご院家(いんげ)さん、子牛が生まれてから一週間ぐらい牛乳の出荷ができない時期があるんですよ」「そうなんですか。なぜですか」と私が尋ねると、いつも決まった答えが返ってきました。

その一週間ぐらいは特にドロドロとした牛乳が出て、なめてみると少し塩辛く、脂肪分がとても多いそうです。ですから、それを沸かし、酢をまぜると、脂肪のかたまりができるほど脂肪分が多いのだそうです。「ご院家さん、この頃はまた免疫性も高く、いろいろな成分が含まれているんですよ」と言われたことを懐かしく思い出します。

蓮如上人の「御文章」に「それ、南無阿弥陀仏と申す文字は、その数わづかに六字なれば、さのみ功能(くのう)のあるべきともおぼえざるに、この六字の名号のうちには無上甚深(じんじん)の功徳利益(りやく)の広大なること、さらにそのきはまりなきものなり」(註釈版聖典・1200ページ)といれています。

母牛が栄養満点の乳を子牛に与えるように、名号には私を浄土に生まれさせ、さとりを開かせる勝(すぐ)れたはたらきがそなわっていると示されたお言葉です。

私は仏の子どもです

人間の知恵は、自分の命がどこから来てどこへ行く命か答えを出してくれません。

私はホテルで寝泊まりすることが時々あります。夜中に目が覚めると、天井の景色がいつもと違うので、びっくりして寝床で飛び上がることがあります。それは一瞬ですが、どこにいるのかわからない不安がそうさせるのです。この不安がずっと続いたらどうでしょう。考えたくありません。

「南無阿弥陀仏」が実現する人生は、浄土へ生まれる命を歩んでいるのですから、命の行く末に対する不安がありません。さとりの身にしていただく人生ですから、未来の私の姿ははっきりしています。「あなたの命はどこに向いて燃焼しているのですか」と問われたら、「はい、浄土へ向かっている命です」と言える世界があるのです。

自分の力では決して浄土に生まれるような存在ではありませんが、「南無阿弥陀仏」の力がおまいりをさせてくださるのです。そこには「有り難うございます」という心と、「申し訳ないことです」という心が同居しています。

「あなたは誰の子どもですか」と聞かれたら、「私は阿弥陀仏の子どもです」と言える世界があります。阿弥陀仏の子どもですといいながら、いろいろな罪を作らずにおれない私ですが、やがて必ず阿弥陀仏と同じさとりを開かせていただくのですから、阿弥陀仏の子どもとして生きていく世界が今あるのです。そこには同じように、慶(よろこ)びと申し訳なさが同居しています。

慧空(えくう)という方の書物の中に「仏を家のアルジとして我も仏の家に同住して給仕(きゅうじ)すと思うべし。我が家に仏を置くとは思うべからず」という言葉があります。阿弥陀仏の家に住まいをさせていただくと思ってくださいという言葉です。「あなたは誰の家に住んでいますか」と問われたら、「ご縁があって阿弥陀仏の家に住まいをさせていただいています」ということです。

どこに行く命? 浄土へ
 どんな命になるの? さとり
 誰の子ども? 仏の子ども
 誰の家に住んでる? 仏の家

阿弥陀仏がくださった智慧がこう言わせるのです。