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秋彼岸を迎えて

本願寺新報 2009(平成21)年9月20日号掲載
山崎 教真(やまざき きょうしん)(岩手・浄泉寺住職)

どこか寂しい風情も


カット 林 義明

今年の気候は「多雨冷夏」「日照不足」などと呼ばれ、不順な天候が続いています。

岩手県の私が住んでいる地域は北上川の上流にあり、秋彼岸の頃には、稲刈りが始まろうとしています。広大な水田地帯ではありませんが、稲穂は黄金色に垂れ、「実るほど頭の下がる稲穂かな」の風景となっています。

春彼岸は生命の息吹を感じさせる季節に思えますが、一方、秋の彼岸は収穫というほかに、どこか感傷的な風情もあります。

ある詩人の作品に、「淋しいね、うん、淋しいね」と言いながら、コオロギたちは夜になると部屋の中で、鳴きながら会話をしているといいます。我が家でも、台所の奥の方から毎晩、さびしそうに、しかし、静かに美しい声が「リーン、リンリン」と聞こえてきます。

今年も巡ってきた秋彼岸を、心静かにお迎えし、浄土真宗の聞法者として、「彼岸」の意味を考えてみたいと思います。

お墓参りだけでは・・・

「彼岸」といえば、大半の人は「秋と春の季節に先祖への供養として墓参りをすること」と考えているようです。

しかし、この思いよりもさらに深めていただきたいことがあります。

「彼岸のこころ」とは、「今日(こんにち)、今時(こんじ)、人間として生かされている私の人生で今(いま)、尊い阿弥陀仏のみ教えに出遇(あ)うことができたのは、今は亡き先祖や肉親、多くの有縁の方々のおかげであった」と感謝の心を抱き、「み仏に導かれ、念仏者へと育てられ、摂取(すく)われて往(ゆ)く歓喜(よろこび)の心から合掌の生活をする」という思いが大切です。

そして、お墓参りの際には、必ずお寺のご本堂にあがり、ご本尊に手を合わせ、また、彼岸会(え)の法話を聴聞し、阿弥陀仏のお慈悲の心のこもった喚(よ)び声を聞信していただきたいと思います。

まことのよろこびを

釈尊の説かれた仏教の教えとは「転迷開悟(てんめいかいご)」(迷いの人生から悟りへの人生となる)、「抜苦与楽(ばっくよらく)」(苦しみの人生が安らかになること)です。そこに至る道として、私たちが今こうして生きている迷いの苦しみの「此岸(しがん)」から、仏の世界、さとりの世界である「彼岸」の世界に往生することを目的としているのが浄土教です。

しかし、この迷い苦しみの此岸に執着(しゅうじゃく)し、流され、溺(おぼ)れ、沈没(ちんもつ)しているのが「私の現実の姿」ではないでしょうか。

それは、私という人間がいつも煩悩をつくることに心奪われ、仏の慈悲心に気付かない無明(むみょう)が原因なのです。

煩悩をつくることにひたすら夢中になっている私の姿は「鬼」という愚かで醜い姿そのものなのです。この「鬼」とは、物事に熱中する人のことで、燃え上がる炎のように煩悩をつくりつづける者、すなわちこの私のことなのです。

宗祖親鸞聖人のご旧跡として知られる新潟県・梅護寺さんに伝わる句には、「逃げる私の手をとらまえて鬼の両手に数珠掛(じゅずかけ)桜」と詠(よ)まれています。

これは、煩悩に心を奪われて無明のままに生きる私に、阿弥陀仏の慈悲心がはたらいて、救い摂(と)ってくださるという意味です。

「南無阿弥陀仏」の六字を、宗祖は「本願招喚(しょうかん)の勅命(ちょくめい)」(註釈版聖典170ページ)と述べられ、「招喚」の左に「マネク ヨバフ」と註釈されています。

また『歎異抄』には「弥陀の願船(がんせん)に乗(じょう)じて、生死(しょうじ)の苦海(くかい)をわたり、報土(ほうど)の岸につきぬる」(同847ページ)と示されています。

阿弥陀仏のお慈悲に背を向けて逃げる私を喚び続け、彼岸の世界に導き救う「本願の船」とは、南無阿弥陀仏の喚び声のことなのです。

煩悩に執着して生きていることにすら気付かない私の姿は、「鬼」の姿なのです。今こそ、彼岸の世界からの、真実の声に目覚め、念仏の人生に生きることが大切です。

どうぞ、この彼岸の季節に、お墓参りと同時に、法座に参詣、聴聞され、此岸の世界で苦悩する私を救うと喚ばれる「仏の悲願」を聞信し、歓喜信受(かんぎしんじゅ)(まことのよろこび)の人生を送られることを、心よりお勧めします。