共に生きる教え
宇治 和貴(うじ かずたか)(龍谷大学非常勤講師)
ひとの苦しみに無関心
カット 林 義明
先日、京都大学の岡真理さんから聞いた話でとても驚いたことがありました。それは、パレスチナの占領地区に住む青年が日本にやって来て、日本に路上生活者がいることに大きなショックを受けたという話です。
ショックを受けた理由は、これだけ豊かな日本に路上生活者がいるということではなくて、路上生活者が道路で寝ている脇を他の人たちが無関心に通り過ぎていること、だというのです。
パレスチナでは自爆テロをした青年がいると、その家が集団懲罰などで爆破されたりするので家を追われる人たちは大勢いるそうです。しかし、路上で生活している人はパレスチナには一人もなく、互いに保護し合う環境があるようです。それに比べて、日本での他の人の悲しみや苦しみへの無関心さはひどすぎる状況なのではないか、といった問いかけは、とても重いものがあると感じます。
宗教に二つのタイプ
こうした自分以外の人が苦しんでいることへの無関心は、実は人間がどのような宗教に立って生きているかといった問題と深く関(かか)わっています。私たち人間は普段の生活の中で、自分の苦しみにはとても敏感で必死に避けようとしながら生きていることが多いのではないでしょうか。宗教には大きく分けて二つの型があるといえます。自分さえ苦しくなかったら良いといった、自分中心の考えを肯定し成就させるための自己中心的な生き方をともなう宗教と、それとは反対に、自己中心的な考えを間違った考え方だと反省して、すべてのいのちある存在と共に生きていこうという願いを持った生き方がはじまる宗教です。
では、浄土真宗はどちらの型の宗教でしょうか。
行動が生まれてくる
親鸞聖人は「としごろ念仏して往生ねがふしるしには、もとあしかりしわがこころをもおもひかへして、とも同朋(どうぼう)にもねんごろにこころのおはしましあはばこそ、世をいとふしるしにても候(そうら)はめとこそおぼえ候へ」(註釈版聖典742ページ)と、念仏の教えに出遇(あ)い往生を願うようになった人には「しるし」があると示されています。
その「しるし」の内容は、これまで自己中心的であった自分自身の心と行動を深く反省し、共に生きている存在の苦しみを自らの苦しみとみて、共に解決の道へ歩みだそうと願う慈しみの心をもとに行動していくようになることだといわれます。
また、親鸞聖人は浄土真宗での救いを「かは(わ)ら・つぶてをこがねにかへなさしめんがごとし」と述べられた後に「れふし(漁師)・あき人(びと)(商人)、さまざまのものは、みな、いし・かはら・つぶてのごとくなるわれらなり」(同708ページ)ともおっしゃられています。
当時、漁師や商人は石や瓦・礫(つぶて)のような存在とみなされ人間としての扱いを受けられない存在とみられていたのですが、聖人もそのような人々とおなじ立場にあると表明されているのです。そして、そのような人々も共に黄金に変化していく尊い存在だといった人間の見方を説いておられるのです。
いつの時代もそうなのでしょうが、すでに輝いている人ばかりが脚光を浴び、そうでない人は無きものとみなされてしまうことがあります。こうした人間の見方を、間違っていると認識できるようになることが、念仏者としての「しるし」の一つだといえるのでしょう。
これまで自分のことしか考えていなかった人が、すべての人が金色に輝く可能性を持っており、他の人の苦しみを自分のこととして考えようとする存在となる可能性を持った、尊い存在だと考え行動するようになること。このこと自体が救いの結果として起こる発想の転換といえるのかもしれません。
すると、パレスチナの青年と同じように路上生活者の横を平気で他人事として通り過ぎていくということはできなくなり、どうにか解決できないかといった発想や葛藤、行動が生まれてくるようになるのではないでしょうか。私自身、そうした自己中心のとらわれから抜け出したともいえる、人間を見る眼や社会を見る眼を忘れないように生きることが「往生願ふしるし」だと反省しながら生きていきたいと願っています。










