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たすきをつなぐ

本願寺新報 2009(平成21)年11月1日号掲載
麻布 明徳(あざぶ あきのり)(三重・善福寺住職)

温泉に行ったつもりが


カット 林 義明

あるお宅での法事の時のことです。法話のはじめに箱根駅伝を話題にしました。ちょうどその少し前、テレビで箱根駅伝の選手が「たすき」をつないでいく思いを語っていた番組を見たところだったからです。

話し始めますと、そのお宅の方が「少し待ってください」と言われたのです。「何かな」と思って聞いてみますと、その方は、長い間、保育士をされていた方で、3年ほど前のお正月に友達に誘われて、泊まりがけで箱根駅伝を見にいかれたのです。

行く前は、駅伝よりも温泉が目当てだったそうです。宿に着き部屋に入ると、駅伝のパンフレットが置いてあり、何気なくそれを見ていたら、「え~」と思わず声を上げて驚いたそうです。それは何年も前、保育園でゼロ歳から何年間か面倒を見ていた子が、駅伝を走るのです。それも、泊まっている宿の前の区間を走るのです。全くの偶然、奇跡的な出来事に、興奮して、翌日の朝の応援にはものすごく力が入ったと、うれしそうに話してくださいました。

受けた恩はすぐ忘れ

この方の、本当にうれしそうなお顔は忘れられませんが、話を聞いていて気がついたことがあります。それは、普通「たすき」をつないでいくと聞くと、スタートからゴールへとか、親から子へなど、一方通行の関係を思い浮かべますが、そうではないと。その方が保育士で、選手が子どもの時には、一見すると一方通行の関係に見えますが、応援する側と選手となったとき、応援しながら元気をもらっているのはいったいどちらなのか。実は元気をもらっているのは、選手以上に応援している側であることを教えてもらいました。

ですから、子どもや孫の運動会での応援、野球やサッカーの応援、お気に入りの歌手などへの応援、元気をもらっているのは応援している側、つまり私の方だったようです。

そう思い、少し振り返ってみるだけで、私自身がいかにたくさんの方々からいろんなものをいただいてきたかに驚かされます。いったい自分自身だけで作り上げたものなんて何かあるのだろうかという疑問がわき上がってきます。たくさんの人に出会い、たくさんの出来事を通して泣いたり笑ったりそして喜んだり怒ったり、たくさんの影響を受けた結果として今の私が作られてきたとも言えます。

ところが、私たちは人に渡したもの、与えたことはよく憶(おぼ)えていますが、いただいたことや、もらったものは、憶えていないことが多いようです。ましてや、それがかたちにならないものの場合は特にその傾向が強いようです。「これだけしてあげているのに、何も私にはしてくれない」「これだけ頑張っているのに、誰も認めてくれない」などの思いが私の心の中から聞こえてくることがあります。

でも実は、いつでも、私が思う以上にたくさんの思いや願いが私に届けられていたはずです。しかし、そのことに私自身が気付けていたかというと恥ずかしくなってしまいます。

この私にはたらく姿

箱根駅伝を走った選手がテレビ番組で語っていました。

「たすき」を渡す瞬間には選手同士、いろんな思いのやりとりがあるそうです。渡す側は、「あとは頼むぞ」との熱い思いを、受け取る側は、「まかせろ」、そしてすべてのチームメートの思い、サポートしてくれている人たちの思いなどをのせてつないでいきます。ですから「たすき」は決して単なる「ひも」ではありません。選手たちにとってはとても言葉では言い尽くせないほどの存在なのです。

私たちに届けられた「南無阿弥陀仏」も単なる言葉ではありません。阿弥陀さまからお釈迦さま、そして親鸞聖人、数限りない先祖の方々を通して、たくさんの思いや願いが私に届くようにはたらいてくださる姿なのです。

ですから、私の苦しさやつらさに寄り添うように、たくさんの温かみや励まし、そしてやさしさが「南無阿弥陀仏」のお言葉となって届けられています。そのことを私自身があらためて気付かせていただいた、そんな保育士さんとのご法事での出あいでした。