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法蔵菩薩のおすがた

本願寺新報 2009(平成21)年11月20日号掲載
松尾 宣昭(まつお のぶあき)(龍谷大学准教授)

「信心がほしい」


カット 林 義明

2年前、70代後半のAさんと面談させていただきました。私のお寺のご門徒さんではなかったのですが、ご自身の後生(ごしょう)が気にかかって以来、熱心に聴聞しておいでになり、お寺の月例法座にもお参りくださっていたのです。

対面すると、「いくら聴聞を重ねても、阿弥陀さまのお喚(よ)び声が聞こえません」と、涙声で訴えられます。

「ご聴聞は獲信(ぎゃくしん)の手段じゃないですよ。聴聞してからお喚び声を聞くのではなくて、ご聴聞イコールお喚び声を聞くこと、ですよ」

「どうすれば聞けるのですか」

「どうするもこうするもない。聞くは聞くですよ。ただ聞く。今ここで聞かせていただきましょう。どうして阿弥陀さまが法蔵(ほうぞう)菩薩となってご修行されたのか、どんなご苦労をしてくださったのか、そして今どこにどうしておられるのかを」と申し上げて、ご本願のいわれを小一時間ばかりお取り次ぎさせていただいたのですが、お話としてはすでにご存じのことばかりだったのでしょう。「信心ほしい」の心は容易に崩れないようでした。

次のご縁は、2カ月ほど後ですが、私の日誌には「Aさんが〝このままでいいのですか!?〟と叫んで号泣念仏される」とあるだけです。

忘恩だと気付かない

3度目のご縁は、その2日後です。どうも感情の昂(たか)ぶりとその反動とに振り回されていらっしゃる印象がありましたので、じっくりと落ち着いて、ご本願のおはたらきを、ともに味わいたいと思いました。

「親鸞聖人は『他力といふは如来の本願力なり』と示されていますね。

それに続けて『本願力とは、法蔵菩薩がいろんなおすがたをお示しになって、ご説法してくださっていることだ』と親鸞さまはおっしゃっておられますが、Aさん、この法蔵菩薩の『いろんなおすがた』ということを、どのように味わわれますか」とお尋ねすると、「わかりません」とのことでした。

「そうですか。じゃあ、私のお味わいで言いますが、Aさんが今おすわりになってる座布団、それは法蔵菩薩が『どうか私の心を聞いてくれ』と、身を投げ出してくださっているおすがたですよ。この畳だって、そう。私たち、法蔵菩薩さまを下敷きにして、やっと聴聞できるんです。

Aさんにも、小さい子どもの時分があったでしょう。小さい頃に履(は)かせてもらった草履、着せてもらっていた着物、学校で使っていた鉛筆、いつも作ってもらっていたお弁当・・・。覚えていらっしゃいますか」

「・・・思い出せません」

「Aさんはそうしたものたちを、用済みになれば見向きもしなかっただろうけれども、それらはすべて法蔵菩薩の『おすがた』だったのではありませんか。ご本願ひとつ聞き開いてくれとの、やるせない親心から、草履になり、着物となり、ご飯になり、聖典となって、実にあの手この手を使って、Aさんに〝ここに親がおるぞ〟と常に叫んでくださっていた。それなのにAさんは、してもらって当然とばかり、如来さまのご恩徳の高いことも知らず、ご自身がそのように忘恩(ぼうおん)であることも知らず、自分の心がひっくり返る体験ばかり求めておられるのではないですか...」とお話ししていくと、途中から「申し訳ないです。もったいないです」と男泣きに泣かれました。

満面の笑みをたたえ

けれども、帰りしな、「これで助けていただけるのですか?」とお尋ねになったのです。

私は首を横に振るしかありませんでした。その後、Aさんとは、寝たきりの奥さまのご看病のこともあって、ご縁が遠のいてしまいました。かなり遠方にお住まいだったのです。

ところが今年の8月のお盆の法座で、聴衆の中に、思いがけず、満面の笑みをたたえたAさんのお姿をお見かけしました。残念ながら言葉を交わす時間がありませんでしたが、これまで一度も拝見したことのないほど明るい笑顔で、私には、心の底から満足しておられるように見えました。

またご縁をいただけたならば、今度こそ「信心ほしい」に用事のなくなったAさんと、南無阿弥陀仏さまのご威徳(いとく)をお讃(たた)え申し上げたいことです。