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そのままが・・・

本願寺新報 2009(平成21)年12月1日号掲載
田中 真生(たなか すなお)(佐賀・眞光寺衆徒)

えっ そんなものを!?


カット 林 義明

8年ほど前、友人のお父さん(ご住職)から、お念珠をいただきました。思いがけないことだったので、それはそれは恐縮しながら(自分で言うのもなんですが)、でも、本当に有り難い気持ちでいただいて帰りました。小さな木の実をつなげたもので、とても優しい感じがして、すぐに使わせていただくようになりました。

そんなある日、「あれ、そのお念珠、どうしたの? 今までと違うね」と、近所のご住職から声をかけられました。

よく見ていらっしゃるなあと思いつつ、「はい。実は、友人のお父さんからいただいて~」と、一通りの説明をしました。するとご住職、こう続けられました。

「えっ? そんなものをいただいたの?」

どういう意味でしょう?「そんなもの」って、どんなものなんでしょう? 気になって、今度はこちらから質問をしてみました。

「これ、どういうものなんですか?」

ご住職、そのお念珠を手のひらに乗せ、じっと眺めた上で、

「これ、いいやつだよ~」

(いいって、ひょっとして?) 「高いよ~、これ」

「えっ、そ、そうなんですか?」

突然告げられた事実に、しばらく動揺が治まらない私でした。そして、それからというもの、もう気になって気になって仕方がない。

「高いって、いくらくらいなんだろう?」

お寺にいると、お念珠のカタログは京都などから毎年送ってきます。そのページをめくるたびに、どうしても似たようなものに目が奪われます。

「これがこのくらいの値段なら、もらったやつは多分...」

お恥ずかしい姿です。

光のはたらき

いただいた、それだけで有り難かったはずでした。いただいたままが、有り難いお念珠でした。でも、私は見失ってしまいました。「高いよ~」のひと言で、「いただいたお念珠」が「高価なお念珠」になり、しかも、価値があるということが一番大切なことになってしまったのです。

実は、「いのち」についても、同じようなことをしていたのかもしれません。大切なことを見失ったまま過ごしていたような気がします。

私は、自らのいのちを、また、周りの人のいのちを、どんな眼差(まなざ)しで見ていたのでしょうか。

たとえば「若いから」、はたまた「役に立つから」「元気だから」というように、「○○だから有り難い」、そんな考え方だったのかもしれません。

いのちそのものを見つめることができず、その周りのことばかりに気をとられている。本来、そうではないはずです。いただいたそのままが有り難い、それが「いのち」です。しかし、日々の生活の中で、すっかり当たり前になってしまって、さっぱり思い出すこともできなくなってしまっている。「そのままを見る」ということさえできずにいる私なのです。

そんな見失っていたことに気付かせる、見失っている私の姿を知らせていく、それが光のはたらきです。照らされることによって、私の眼(まなこ)は曇っていた、それどころか、真っ暗だったと気付かされていくのです。と同時に、なんとも大切なことを教えられ、思い出させられ、あたたかい気持ちになるのです。お浄土の、阿弥陀如来のこのはたらきを、「ひかり」といただくのです。

一つのお念珠をいただいたことによって、また、親しいご住職の何気ないひと言によって、大切なことを思い出したお話です。

自身の尊さに気付く

「いのちそのものが尊い」

できるだけ忘れないように、と思っています。自分自身に、「いただいて、よかった」と言える私でありたい。そして、同じ気持ちで隣の人にも、あなたそのものが尊い、そんな思いを伝えたい。「いただいて、よかったね」と声をかけていける生き方がしたい。私自身の尊さに気付くことが、家族の、隣の人の、いろんな人の尊さへと広がっていく、それが、ナモアミダブツの教えだといただいています。今日も、ナモアミダブツです。