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「みんな」

本願寺新報 2010(平成22)年12月20日号掲載
牧野 悠水(まきの ゆうすい)(本山・布教研究専従職員)

法名(ほうみょう)をいただいて


カット 林 義明

「全然違う名前なのに、同じ意味に聞こえるのが不思議ですね」

その言葉にハッとしました。阿弥陀さまのお救いは、同じように「みんな」に届いているんだなぁ・・・と。

その言葉は、ご本山での帰敬(ききょう)式の集いで、受式されたご門徒さんからの一言でした。

みなさんは、帰敬式を受式されたことはありますか?「おかみそり」という呼び方もしますが、ご本山から法名(仏教徒の名前)をいただき、仏教徒としての生活をあらためて始めさせていただきましょう、という式が帰敬式です。

ある日の帰敬式。ご夫婦で受式されていた方のご要望で、それぞれの法名の由来についてお一人ずつお話をさせていただきました。お二人とも、全く違う字であり、さらに違うお経に由来する法名でした。しかし、ひと通りお話が終わりますと、驚かれながら冒頭のように、奥さまがおっしゃったのでした。

その言葉を聞いて、人それぞれ名前は違えども「必ずあなたを仏にしますよ、まかせなさい」のお救いが届いているのだな、「みんな」に阿弥陀さまのお救いは届いているのだなと気付かせていただきました。由来について話しているはずの当人、私も含めて。

娘のひと言にアッ

思い返せば、9月下旬の頃でした。お寺の駐車場で、庭木に水やりをしていました。夏の暑い頃は、朝晩2回水やりをする必要がありますが、やっと涼しくなってきたので、日に1回で済むようになりました。

毎日1時間以上かかる水やりがやっと一段落する頃でした。その水をやっているところに、正直見たくないものがありました。雑草です。お盆・お彼岸の忙しさにかまけて、伸び伸び?と生えていました。

「ああ、早く抜かなければ...」

夏休みの宿題をためるにためた子どものような気分です。ですから、雑草にはこれ以上伸びないように極力水がかからないようにし、花やレモンなどには、咲けよ、成れよ、とたくさん水をやるのです。勝手ですね。

そこへ、6歳になる娘がやって来ました。「水やりやらせて」とせがむ娘に、「今日は忙しいから、また今度ね」などとあしらっていました。内心、ただでさえ時間がかかる水やりを早く済ませたい、雑草も抜かなければならん、わがまま言わんでくれ、という思いがありました。

あきらめた娘は、今度はいろいろな質問をしてきました。子どもは本当にいろんなことを「なんで?」「なんで?」と聞いてきます。余裕のあるときはじっくりと話もできるのですが、忙しくて落ち着けない時は素直にその質問を聞くことができません。正直、聞き流していました。

しかしその時、娘がこんなことを言ったのです。

「お父ちゃん、猫じゃらしさん、お水おいしいおいしいって言うてるでしょ?」

アッ、と思いました。

子を思う親心

私は、自分にとって気に入った、役に立つ花やレモンには水をやり、雑草には水をやらずただ邪険にする。それは、「みんな」を大切にしない自分でした。

阿弥陀さまは、「みんな」を救う「平等心」(註釈版聖典237ページ)をお持ちです。その「平等心」とは、制限を設けず、すべての生きとし生けるものを「平等」に救いたいという「お心」です。しかもそのお心とは、「一子地(いっしじ」(同)と言われるように、親が自分の「一子(ひとりご)」を思うような「境地」です。「平等心」であり、「一子地」である、それが「みんな」を救う阿弥陀さまのお心です。

娘は、雑草を含めてすべての庭木を大切な生き物と見られたからこそ、私から見れば憎々しい雑草までもが、水を飲んでいることを喜んでいると思えたのでしょう。

また、「雑草」と粗雑に、邪険にひとまとめにせず、猫じゃらし1本を慈しむように「猫じゃらしさん」と呼んだのです。それは、「一子地」であり、「平等心」である阿弥陀さまのお心を私に気付かせてくれたご縁でした。

一人一人、名前は違っても同じ心が、阿弥陀さまの心が注がれています。あなたに、そして「みんな」に。