如是我聞(にょぜがもん)

本願寺新報 2010(平成22)年2月10日号掲載
福間 義朝(ふくま ぎちょう)(広島・教専寺住職)

とても謙虚な姿勢

カット 林 義明

お経(きょう)は「如是我聞(にょぜがもん)」という言葉から始まります。日頃親しく拝読いたします『阿弥陀経』も「如是我聞、一時仏在(にょぜがもん、いちじぶつざい)・・・」と始まります。『大無量寿経』は「我聞如是」で始まりますが、意味は同じです。「わたしは、かくの如くお聞かせいただきました」。これが「如是我聞」です。

「仏さまがかくの如くおっしゃられました」で始まるのではなく、あくまで「私はこのようにお聞きしました」と、われわれ人間の立場から始まるのが、お経の大きな特徴であると言えます。これは、お釈迦さまのおさとりの世界は広大無辺で捉えようもないが、この私が頂いたところによりますとという、とても謙虚な姿勢です。私見をまじえることなく、そのまま、その通りに聞く、仏さまの意にかなう姿勢が示されていることだと思います。

実際私たちは人間は、自分のあるようにしか世界が見えません。ほかの人を見て、その人の過去も、また何を思ってその人生を歩んでこられたのか、その人の百分の一、万分の一もわかっていないのに、「この人はこういう人だ」と決めつけたりします。何もわかっていないのに、わかっているつもりになっていることこそが迷いです。

また、「今日は寒い」と言いますが、「私が感じるところでは、今日は寒い」と言うのが正確な表現です。寒いと思わない人がその場にいるかも知れません。私たちは自分の感じる世界にしかいることができません。自分がしんどい時には世界は灰色に見え、楽しい時にはバラ色に見えるのが私たちの有り様です。ですからどこまでいっても真実がわからないのです。

よき人のおおせに

しかし私たちは真実に遇(あ)っていく世界があります。それが如是我聞、聞いていく世界です。

ここに何を言ってもウソをつく人がいたとします。さて、そのウソつきの人が「私はウソつきです」と言った言葉はウソでしょうか・・・。いいえ、この言葉だけは真実です。ウソつきも一つだけ真実を言うことができます。そのように真実の全くわからない私たちも一つだけ真実のことが言えます。それは「私の中にはどこまでいってもあてになるものはありません。真実はありません」ということです。聞けば聞くほど私の中には真(まこと)のまの字も無いと知らされていくのが、実は真実に遇っていく世界なのです。

このことに徹底されたのが親鸞聖人でした。聖人は「私の言うことは真実であり、間違いない」という姿勢ではありませんでした。『歎異抄』に「よきひとの仰せをかぶりて」とありますように、「ただ恩師・法然聖人からこのようにお聞かせいただきました」という姿勢を一生貫かれました。

聖人の著された『顕浄土真実教行証文類』(教行信証)も自説が展開されているのではありません。お釈迦さまの説かれた経典、法然聖人までの高僧の方々が著されたご文(もん)、そしてそれをいただかれた聖人のお言葉が載せられてあります。これこそ如是我聞の姿勢そのものだと思います。

愚かさを知らされる

世の中に「この私の言うことこそ真実だ」と宣言する教祖がいて、その教祖という一人の人間の言葉こそ真実の声だという教団があったら、それは最も危険なものと思われます。如是我聞という世界は、聞けば聞くほど私こそ真実に近づき偉くなっていくことではありません。逆に愚かさに気付かされていくことです。私たち人間は上へ上へとはい上がっていくことを好みますが、聞けば聞くほど逆に下へ下へと落ちていくのです。ではどこに落ちていくのかと言いますと、それこそ阿弥陀さまの胸の中へと落ちていくのです。

もし「私の信じる教えこそ真実である」と主張する異なる教えの信奉者が二人いたら、そこに起こるのは争いでしょう。その想いが純粋であればあるほど争いは熾烈(しれつ)になっていきます。これが現に今世界で起こっていることではないでしょうか。もしそこにお互いが、「我々人間の中にはどこまでいっても、自分の力で真実の世界を見ることができない」という気付きがあったならどうでしょうか。

主張して、戦って相手に勝つことより、自分の愚かさへと眼が向けられていきます。そこにはもはや争いはありません。

「如是我聞」―これこそ異なった民族、宗教がますます混ざり合ってボーダレスになりつつある今日この世界の、大切なキーワードに思えてなりません。

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