忘れてませんか?

本願寺新報 2010(平成22)年3月 1日号掲載
三木 充信(みき じゅうしん)(兵庫・専徳寺住職)

お休みしてるのは・・・

カット 林 義明

春の足音とともに、きびしかった冬もようやく終わりを告げようとしています。

「春眠暁(あかつき)を覚えず」などといわれますが、朝の寝床の名残惜しさも、あまり感じなくなってきた今日この頃です。

朝の目覚めとともに気になるのが、その日の体調。「胃がちょっともたれてるな」とか、「なかなか肩こりがとれないな」と、日頃の疲れがたまっているのが、忙しさに追われる現代人ではないでしょうか。

さて、私たちのお腹の中にある胃や腸といった臓器は、食べ物を消化して、生きていくために必要な栄養を身体(からだ)に取り込んでくれています。これらの臓器は心臓と同じように、意識をしなくても勝手に働いてくれています。ありがたいことです。

元気な時は忘れがちでも、ちょっと風邪をひいたり、お腹が痛くなったりすると、健康のありがたさが身にしみます。毎日頑張って、それこそ寝ている時も起きている時も、私の身体中のすべてが働き続けてくれているのです。

ところが、一つだけお休み?をしているところがあります。

それは「おへそ」です。

いかがですか、「この前、おへそに世話になったなぁ」という方がおられるでしょうか。やっぱり、おへそなんて何の役にも立っていませんね。

親の心 子知らず

でも、私がこの世に誕生するまで、母親のお腹の中で私と母は一本の管で繋(つな)がっていました。その名残がおへそです。日頃の会話の中にも、「へそを曲げる」とか「へそで笑う」など、昔からおへそに関することわざは多く使われています。

普段はあまり気にも留めていませんが、おへそをよく見てみると、へこんでいるものや、出ているもの、右に向いたり、左に向いたりと、いろんな顔を持っているおへそです。このおへそのおかげで、オギャアと産まれてくるまで休むことなく母親から充分な栄養を分けてもらって育ててもらいました。

ですが、そんなことはすっかり忘れてしまっているのが、ほかならぬこの私自身なのです。確かに、実際に見てきたわけでもないので、母親にその時のお礼なんてするはずがありません。でも、「親の心 子知らず」といったところでしょうか、よく考えてみると何とももったいないことです。

常にわが身を省みる

釈迦(しゃか)は慈父(じふ)、弥陀(みだ)は悲母(ひも)なり。われらがちち・はは、種々の方便をして無上の信心をひらきおこしたまへるなりとしるべしとなり。(註釈版聖典713ページ)

親鸞聖人は『唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)』というお書物に、こうお示しになりました。

お釈迦さまは、慈しみあふれる父親であり、阿弥陀如来さまは、あわれみ深い母親であるといわれます。そんな私たちの父(ちち)・母(はは)は、さまざまな手だてを施して他力の信心を開きおこしてくださるとおっしゃるのです。

私たちが「おやさま」とお慕いする阿弥陀如来さまは、五劫(こごう)という永い永い間、あらゆる衆生を救うために思惟(しゆい)されました。そして、めでたく南無阿弥陀仏のご本願を成就され、この私は必ずお浄土へ往(い)って仏に成ることができるのです。迷いのまっただ中を生きているこの私ですが、阿弥陀如来さまに願われて「そのまんま」救われていくのです。

でも、おやさまの願いをよそに、目の前のことだけに右往左往しているのが、ほかならないこの私です。いつも私の真ん中にある「いのち」の証(あかし)なのに、こんなに身近にあるおへそなのに、ほったらかしにしているように・・・。

皆さんはいかがですか?

おへそに最近ご挨拶されましたか?ひょっとして汚れていませんか?私という縁を結んでくれた「おへそ」をきれいにして、私のいのちをもう一度見つめてみませんか?

「なんまんだぶ、なんまんだぶ・・・」と「そのまんま」救われていくこの身のしあわせを喜びながら、「このまんま」でよいのか、と常に自らのすがたを問うていく日暮らし。それがおやさまの願いに出遇(あ)い、お念仏を申す日暮らしなのです。

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