医学の進歩とお念仏

本願寺新報 2010(平成22)年4月20日号掲載
ドクターボンズ 杉本 光昭(すぎもと みつあき)(兵庫・光澤寺住職)

病を診る 人を診る

カット 林 義明

日本緩和医療学会という学会があります。どのような学会かと言いますと、がんやその他の治療困難な病気の全過程において、いかにQOL(生きることの質)の向上を目指すかを考える医療・福祉系の学会です。

以前は終末期医療という考えのもと、治療が困難になった方の終末期に対してどのように医療が寄り添えるかを考えていましたが、今は、大きな苦悩を抱える病気の全過程を対象とするように変わってきました。いずれにしても、かつての医学教育の中には、無かった分野です。

「医者は病気を治すもの」と考えていましたから、「治せない病気の人」に対して医者は関(かか)わりが持てませんでした。

しかし、「病気を治す」という考えから「病気の人を治す」。あるいは「病気を診る」から「人を診る」という考えに変わってきました。海外では日本より先んじて、先の緩和医療という考えも起こり、日本もその考えを学び、医療・福祉の考えも進化してきました。

現在、緩和医療の考えの一つにチームアプローチがあります。医者や看護師、薬剤師、ソーシャルワーカーなどがチームを組み、患者や家族に知識や技能を提供するのです。

かつて海外からこれらの考えが輸入された時、このチームの中に「宗教家」という名前が入っていました。残念ながら、最近の日本の学会発表の場において、このチームの中に「宗教家」を入れている学会発表は少なくなっています(実際、学会が出している「緩和ケアチームの手引き」には「宗教家」の文字は見当たりません)。

海外における宗教観と日本における宗教観の違いでしょうか。あるいは、あまりに動かない日本の「宗教家」に対して、医療・福祉の現場であきらめられてしまっているのでしょうか。

私の存在は?

毎年多くのメンタルサポート(精神的な寄り添い)について学会発表がなされている中で、「その先はどうするの?」と疑問がわく発表を多く聞きます。

これは「歳をとること」より「若い方」が良い。「病気」よりも「健康」が良い。「死」より「生」が良いというような、二元的で、比較でしか価値を見出せない考えから抜けきれないための行き詰まりでしょう。

どのように寄り添おうとも、治らないのですから、悪い方にしか行かない。最後に「やっぱりだめだった」と死を迎えることになってしまいます。寄り添う方も、この比較の価値の中にいる限りは、「ここから先どうしたらいいの」と途方にくれるのでしょう。

親鸞聖人は「現生(げんしょう)における正定聚(しょうじょうじゅ)」をお説きくださっています。これは死んでからいいことがあり、生きている間は我慢しなさいという考えでもなければ、生きている間にいいことが起こり、死んでからは知りませんという考えでもありません。

生きている現在から、人間界と縁が尽きることとなっても、途切れることなくお念仏の日暮らしが続くというものです。

「生」と「死」という対比的な言葉をあえて使うならば、「生」と「死」が一体の価値を持つというものです。

言い換えますと、私たちの本来の存在価値は生きていようと死んでしまおうと変わらずに有るということです。

南無阿弥陀仏の世界

私たちが今ここにいるのは、数限りない因子の結合と重なり合いがあって存在しています。

仏教では「因」とか「縁」とかいわれます。この無数の「因」や「縁」の集合体が「私」なのです。もし、たった一つの「因」でも欠落していたなら、今の「私」は存在しません。その関係の中で「私」の存在なくしては、他のいかなる物も存在しなくなってしまいます。

「私の命」というのは人間の目に見えているものの中だけに有るのではないのです。「あなたの命」はあなた一人の物ではなく、すべてに影響を与え、肉体が滅んでもその影響はいつまでも続いていくのです。

穏やかな春の風の中にも私がおり、柔らかな日差しの中にもあなたがいるのです。それが「南無阿弥陀仏」の世界なのです。

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