大きな羽のぬくもり

本願寺新報 2010(平成22)年7月20日号掲載
宮部 誓雅(みやべ せいが)(本山・布教研究専従職員)

あくなき大悲

カット 林 義明

「阿弥陀さまの姿をこの眼で確認できるなら、文句無しに信じることができるのに・・・」

そんなふうに思ったことがあります。しかし、私の眼は煩悩によって曇っている、迷いのまなこでしかありません。迷いをもって見る世界は、すべてが迷いなのです。

親鸞聖人は『高僧和讃』に、

煩悩にまなこさへられて
摂取(せっしゅ)の光明みざれども
大悲ものうきことなくて
つねにわが身をてらすなり
(註釈版聖典595ページ)

といわれています。

悲しいことに自己中心の生活に明け暮れ、欲望に心を閉ざされている私には、仏さまのお姿を見ることができません。しかし阿弥陀さまは光明によって私を摂(おさ)め取り、片時も目を離さずに護(まも)りはぐくんでくださることをお慶(よろこ)びになったお言葉です。

摂取の光明は、あらゆるものを照らしはぐくんでくださいます。それはまるで太陽の光を受けた、生きとし生けるすべてのいのちが、いきいきと躍動するように。

ところで、はぐくむという字は「育む」と書きますが、これはもともと「羽包(はぐく)む」という意味だそうです。親鳥の大きくて柔らかな羽で卵を大切に包み込み、わが子を温めている姿を想像させてくれます。親の深い愛情を感じずにはおれません。

おなかすかへんの?

以前、娘とお寺の境内の掃除をしていましたら、梅の木にハトが巣を作っているのを見つけました。ちょうど私の目の高さ辺りで、とても見やすい位置にありました。ハトは公園やお寺など、どこに行っても見られる鳥ですが、卵を抱いているハトを見たのは初めてでした。しかし、私はとりたてて気にかけることもありませんでした。

ある日のこと、梅の木の前を通りかかると、あの親バトが私に背を向ける格好で卵を温めていました。そっと近づいていくと、私の気配に気づいたのか、急に身をひるがえして、こちらに向きなおるのです。

普段見かけるハトは人間が近づくと慌てて飛び去ってしまうのですが、その時ばかりは、まるで私に挑みかかってくるような、そんな気迫さえ感じました。卵を抱いている時の親の迫力たるや想像を絶するものがあります。そして私たちがいつ見かけても、必ずそこにじっとしているのです。

それからというもの、私と娘はハトが本当に巣を離れることがないのか気になって毎日様子を見に行くようになりました。朝、昼、夕方と時間帯を変えて何度も見に行ったのですが、ハトが巣から離れることはありませんでした。

疑問に思った娘が、私に「ハトさんは、ゴハンどうしてるんやろ?」「お腹(なか)すかへんのかなあ?」と聞いてきます。

私は「親は2羽いるのだから、どちらかがエサを捕りに行って、交代で抱いているのだろう」と単純に考えていました。

すると娘が、「自分のゴハンより、卵の方が大切なんかな?」といったその一言に、私はハッとさせられました。

仏とならせていただく

このハトは自分の身がどうなろうとも、「この子を立派に育て上げる」と必死に抱きつづけている姿であったと気づかされたのです。

ただ外敵から卵を護っているだけではありません。我がぬくもり(体温)を卵に与え続け、それがそのまま子のぬくもりとなっているのです。

ヒナは殻に閉ざされて親の姿を見ることができません。しかし、その大きな慈愛の中で成長し、やがてその硬い殻を破って、親と出あうのです。一方、親は一瞬の休みも油断も許されません。そんな苦労を思わずにはおれませんでした。

私は煩悩という自我の殻に覆われて阿弥陀さまのお姿を見ることができません。けれども、阿弥陀さまは、そのかたくなな心を障りとせず、摂取の光明という大きくて柔らかな羽で抱きかかえ、ぬくもりを与え続けてくださいます。阿弥陀さまのお徳のすべてを、この私にふり向けてくださっているのです。

卵が親バトにはぐくまれてやがて立派なハトになるように、私も今、仏さまにはぐくまれて、お念仏を喜ぶ身に、そして、お浄土で仏とならせていただくのだと思わせていただきました。

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