だいじょうぶ だいじょうぶ

本願寺新報 2011(平成23)年2月20日号掲載
清胤 祐子(きよたね ゆうこ)(広島・正覚寺衆徒)

カット 林 義明

みなさんは『だいじょうぶだいじょうぶ』(いとうひろし作・絵)という絵本をご存じでしょうか。

主人公の僕(ぼく)は、幼い頃からずっとおじいちゃんの愛に包まれて成長してゆくのですが、その過程で、いじめや学業不振、杞憂(きゆう)や社会の矛盾というような壁にぶつかるたびに、おじいちゃんから「だいじょうぶだいじょうぶ」という言葉がけをしてもらいます。おかげで僕は大きくなるのですが、今度はおじいちゃんが入院してしまいます。

もしかすると今生(こんじょう)の別れになるやもしれません。二人にとって一番つらい結果が待っているかもしれないその時、僕は「今度は僕の番です」と念じ、おじいちゃんの枕元で「だいじょうぶだいじょうぶ。だいじょうぶだよ、おじいちゃん」と、今までずっとかけてもらっていたあの言葉を、今度はおじいちゃんに返すのです・・・。

この絵本のタイトルには「だいじょうぶ」が二回繰り返されています。その意味は、大切なことは繰り返すのが肝要ということもありますが、一回目の「だいじょうぶ」と二回目の「だいじょうぶ」の意味合いが違うからかもしれません。

一回目の「だいじょうぶ」は、「きっと、たぶん、だいじょうぶよ!」という、安心は安心でも一(ひと)安心(気休め)のだいじょうぶでしょう。きっとだいじょうぶと思い込んで一歩踏み出さねばならないことが、この世の中には多いですよね。でも"きっと"の裏返しは"万が一はダメ"ですから、二回目の「だいじょうぶ」が必要なのです。

この「だいじょうぶ」は「生きてよし、死してよし」のだいじょうぶ、すなわち結果がどうであろうと見捨てられないだいじょうぶ。「ご安心(あんじん)をいただく」とは、こういった心持ちをいただくことではないでしょうか。渡る世間で必要なだいじょうぶと、阿弥陀さまにどんな時でも抱(いだ)かれているご安心のだいじょうぶを、この絵本は簡潔にあたたかく描いていると私は思いました。

不安でたまらない

実は私自身、この「だいじょうぶ」を、5年前に往生した祖父から、最後の敬老の日にかけてもらった経験があるのです。

私は敬老の日だけは、どんなに忙しくても祖父に会いに行こうと努力していましたが、今思えば、寝たきりになってもその日には必ずワイシャツにネクタイをして待っていてくれた祖父のおかげだったと、目頭が熱くなります。

でも最後の敬老の日の三日前に、私には大変なことがあったのです。初めての入院・手術が決まり、不安でたまらない私でしたが、祖父のお祝いだからと何とか笑顔で出発しました。しかし、会食の最中、大出血という惨事が起きたのです。頭がまっ白になりましたが、これ以上心配をかけるわけにはゆかず、取りつくろって病院に向かおうとしたその瞬間、「ゆうちゃんや、なんかあったんかい?おじいちゃんに言うてみなさい」と祖父が絶叫したのです。

私は祖父の胸の中で号泣しました。成人してからは呼ばれていなかった幼名で呼んでくれたおかげで鎧兜(よろいかぶと)(見栄や体裁)を脱ぎ捨ててありのままの私に戻って泣きました。そしてとうとう涙も枯れ果てたころ、ぽんと背中をたたかれて「だいじょうぶ、おじいちゃんがついとる!」と、春の日だまりのような声で伝えてくれたのです。

おかげで私は手術を無事受けることができました。おじいちゃんがついとる!と言ってもらったから、不安は全部祖父にあずけてしまったのです。祖父は、手術の結果ばかりが気になって今を安心して生きられない私に、「どうなるかではなく、どうにかなる大丈夫(だいじょうぶ)。おじいちゃんがずっとそばにいるから、一人で立ち向かっているのではないのだから」という確かな安心を届けてくれたのだろうと思っています。

でも、だいじょうぶ

私は今でも、強い心の持ち主ではありません。いつもくよくよ悩みます。でもそのたびに、仏さまとなった祖父の声が届きます。

「だいじょうぶ、おじいちゃんがついとる!」「まかせよ、必ず救う!」――南無阿弥陀仏が届きます・・・。

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