言葉というもの

本願寺新報 2011(平成23)年3月10日号掲載
羽田 高秀(はねだ たかひで)(心理カウンセラー)

虹の色は7色?

カット 林 義明

年に何回か、空にきれいな虹を見ることがあります。空にかかった橋のような大きな虹を見た時は、なぜか幸せな気持ちになります。実はこの虹、国によって色の数が違うようです。旧ソビエト連邦では4色~7色、ドイツでは5色だそうです。日本では小学校で「虹は7色」と教えられたように覚えています。

太陽の光を、プリズムという三角柱の透明のガラスの中に通すと、いろいろな色に分かれます。この色は赤、橙(だいだい)、黄、緑、青、藍(あい)、紫の7色に分かれているように見えます。光がガラスの中を通るとき、色によって曲がる角度が異なるためにこのように分かれるそうです。これが虹の正体です。

ところが、本当は7色ではなく、よく見ると無限の色に分かれているのです。私たちがその無限の色を、私たちが使っている色を表す言葉の範囲で区切って、7色の言葉として表現しているだけなのです。

世の中には、いろいろな言葉があふれています。時代とともに使わなくなっていく言葉があり、新しくできる言葉があります。その中で私は、あまり使いたくない言葉があります。「婚活(こんかつ)」「就活(しゅうかつ)」「無縁社会」です。婚活とは結婚活動の略、就活とは就職活動の略だそうです。

人にラベルをはる

結婚も就職もなんらかの縁により結ばれていくものです。そこに「活動」などという言葉がくっついた時点で、それをしなければ社会からはずれた人間になってしまったような感覚になり、結婚、就職ができないことが、罪悪であるかのように感じてしまわれる方がおられます。

就職できていない状態に対して、「ニート」や「フリーター」などという新しい言葉ができてきます。そして、そういった状態にある人に、「ニートの人」などというラベルをはってしまうのです。ラベルをはられた方は、それによって何かその状態が申し訳ないかのごとく、新しい悩みとなってしまうのです。

人生の中で、なんらかの理由によって、一人で生きていかなければならない状態になってしまった。そして、もしかしたら誰にも見取られずに亡くなっていくかもしれない。そういう方々が増えていく可能性がある。そこに「無縁社会」というラベルをはってしまっているのではないでしょうか?縁がうすれる社会の傾向を何とか違った方向に変えていかなければならないという思いは必要かもしれません。しかし、この言葉だけで、どれだけの人がつらい感覚、いやな感覚、底知れぬ孤独感を覚えたことでしょう。私たちの世界に「縁」が無いなどということはありえないのです。

「犯罪者」などという言葉も、その人が育ってきた環境、生きてきたプロセスなど、すべて無視して、一人の人間にラベル付けを行ってしまう言葉です。臨床心理学者であった河合隼雄さんが、「大人の友情」というテーマで、ある心理学者の話を引用して次のようなことを話しておられました。

「ほんとうの友人とは?」という問いに対して、

「夜中の12時に、車のトランクに死体をいれて持ってきて、どうしようかと言った時、黙って話に乗ってくれる人だ」と。

そこには「犯罪者」というラベル付けは存在しません。私自身も、その縁があれば、同じような状況で罪を犯してしまうかもしれないのです。

言葉は、自と他を分離する働きを持っています。本当は一つの世界であったものが、言葉によって、分離した世界を作り上げていると言っても過言ではないかもしれません。

コンビニやファストフード店に行くと、それがよくわかります。「人と人」の関係が、店に入った瞬間から「客と店員」になります。客にとって「店員」は、何かちょっと気に入らないことがあると平気で文句を言ってしまう存在になります。反対に店員にとって「客」という言葉は、一人の人間というより、単に物を買ってお金を払ってくれる存在になってしまうのです。

「南無阿弥陀仏」という言葉はどうでしょう。その言葉に「量(はか)りしれない光」「量りしれないいのち」が含まれています。私は、「南無阿弥陀仏」をよくよく味わってみるとき、分離されない、あらゆるものが一つである世界が見えてくるのです。

そこには、「犯罪者」も「無縁社会」も存在しないのではないでしょうか?

ホーム教えみんなの法話言葉というもの

ページの先頭へ戻る