いのちの帰依処

本願寺新報 2011(平成23)年3月20日号掲載
伊東 順浩(いとう じゅんこう)(山口・蓮光寺住職)

遠くて近いお浄土

カット 林 義明

「とってもきれいなお日さまですよ」

川土手の道路を運転していると、同乗の方が教えてくれました。

「本当ですね」

車を止め、しばらく美しい夕陽を眺(なが)めました。ため息をつかんばかりに夕陽に見とれていました。私たちの顔は陽の光に照らされて赤く染まっています。太陽ははるか彼方にあるのですが、その光は私たちを照らし、包んでいました。

教えてくれた方があったので、私は美しい夕陽を見ることができました。そして、その光が私を包んでいることに気付かされました。

お彼岸には、太陽は真西に沈みます。西は、月や星も沈む方角です。お経(きょう)には、お浄土は西にあると示されます。西の方角をもっていのちの帰依処(きえしょ)、さとりにいたる方向を指し示してくださっているのです。

『阿弥陀経』には、「これより西方に十万億の仏土を過ぎて」と、はるか遠くにあると説かれます。

「これ」とは私の煩悩の世界です。煩悩を超えたところがお浄土と示されます。

煩悩からすると、お浄土ははるか遠くにあるのです。しかし同時に、お浄土のはたらきは、この煩悩の身をも包んでくださっているのです。

煩悩の身では、私たちはどの方向に歩んでいいのかわかりません。煩悩に振り回され、迷いの世界にとどまるばかりです。欲や煩悩の方に向いている私たちに、さとりの方角を示して、お浄土への歩みをおすすめくださっているのです。

迷いを重ねるこの私

先日、「お寺に行きたいのだけれど道に迷ってしまって」と、携帯電話からお電話をいただきました。

「今どこにおられますか」と尋ねると、「それがどこにいるかわからないのです」という返事。こちらも答えようがなく、「何か目印になるような建物などありませんか」と聞くと「丸い建物があります」と言われました。

「それではよくわかりませんね。お店か何かは?」

「少し戻ってみます」などと長いやり取りがありました。しばらくして、「今、消防署の所に出ました」という電話があり、ようやく今どこにおられるかがわかり、道順をお伝えしました。

カーナビをたよりにお寺においでになろうとしていたそうなのですが、どうも目的地の設定がうまくいっていなかったようです。

道に迷うにはいろいろな原因があります。行きたい所がはっきりしていても、行き方を間違えると迷ってしまいます。「今自分がどこにいるかわからない」と、現在地を見失うと迷いは深まります。

さらに深い迷いは、行き先も現在地もわからないときです。どこに行っていいのかわからずに、さまよっているときでしょう。もっと深刻な迷いがあります。それは、自分が迷っていることさえ気付かずに、迷いに迷いを重ねてしまうときです。

道に迷ったら
たちどまって
道を知っている人に
尋ねるのが一番
そのうちにと思っていると
日が暮れてしまう
 鈴木章(あや)子『癌(がん)告知のあとで』

 

迷いのままの自分では、迷いから抜け出すことはできません。そんなときは、まず立ち止まることです。今、自分がどこにいて、どこに行こうとしているのか、そしてどういう方法で行くのかを確かめることです。

それを教えてくれるのは道を知っている人です。

道を知らない人に尋ねると、かえって迷いは深まります。

道を知っている人とは、お釈迦さまであり、親鸞聖人であり、すでにお浄土にお生まれになった、有縁の方々でしょう。

煩悩に惑わされ、自分が迷っていることさえ気付かずに、迷いに迷いを重ねている私たちに、さとりの方角を示し、お浄土へ生まれゆく人生、お念仏申す人生を教えてくださいます。

お彼岸のこの時季、お浄土のはたらきに気付かせていただきながら、今、私の人生はどこを向いているのか考えてみたいものです。

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