人生を歩む力

本願寺新報 2011(平成23)年8月20日号掲載
三浦 明利(みうら あかり)(奈良・光明寺住職)

わかってもらえる

カット 林 義明

人生の中で起こるほとんどの努力や苦労は、誰にもわかってもらえないまま耐え忍ばなければならないことがほとんどです。私たちが生きているこの世界のことを「忍土(にんど)」ともいうのはこういうことです。

もし、その苦労をわかってもらえる方がいらっしゃるとしたら、その時、一緒に苦労した方でしょうか。しかし、それでもすべての歩みを知ってもらえるわけではありません。

私のすべてをわかっておられる方がいらっしゃるとしたら、それは阿弥陀さまです。私の恥ずかしいところも全部知ってくださっていますが、それだけでなく、これまでの歩みをすべて知っていてくださるのです。私たちの歩みのすべてをご覧になられ、誰にもわかってもらえないことまでも知ってくださっているのです。

報われない努力、耐え忍ばなければならない苦悩、そんなことを全部ひっくるめて「おまえを救いたいのだ」と、はたらいてくださるのが阿弥陀さまです。それが「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」、摂(おさ)め取って捨てたまわず、というお言葉にあらわされているお心です。

阿弥陀さまは私たちに寄り添い「一人ではない」とよび続けてくださっています。この寄り添う心こそが阿弥陀さまの「慈悲」のお心です。それは、全部知ってくださっている阿弥陀さまが、私の悲しみをわが悲しみとして寄り添い、またうれしいときには一緒によろこんでくださるお心です。阿弥陀さまと一緒に歩む人生ほど心強いことはありません。

一人じゃない

3年前、住職であった父の突然の退任により、私は25歳で住職になりました。90歳の祖父と、がんで二度の手術を終えて退院したばかりの母とでお寺を守っていくという中で、大きな不安がありました。しかし、悩む暇もなく、住職としての日々が始まり、とにかく一生懸命でした。音楽をやめ、大学院を休学し、お寺に専念する中で、私は心の底で「誰にもわかってもらえない」という気持ちがありました。

そんなある日、私はご門徒さんのお宅へお参りし、おつとめの後、いつものようにお話を聞かせていただいておりました。

私はご門徒さんとわかりあいたい、ご門徒さんの気持ちに出来るだけ寄り添いたい、という思いでお参りさせていただいており、故郷の話や戦争の話、身近な出来事や家族の話などを聞かせていただいて、一緒によろこんだり、悲しんだりさせていただくのです。たとえ、その方の人生の千万分の一にも満たないことでも聞かせていただこう・・・。

しかし、その日ずいぶん時間をかけてお話を聞かせていただいた後、そのご門徒さんが言われた最後の言葉は「誰もわかってくれへん。やっぱり一人です。寂しいです」というものでした。

これだけ時間をかけて、聞かせていただいたのに残念だな、と思ったその瞬間、私は「あっ・・・!」と思いました。

「この方は、私だった!」

報われない努力、耐え忍ばなければならない苦悩、そんなことを全部ひっくるめて「一人じゃない」「おまえを救いたいのだ」とはたらいてくださる阿弥陀さまがいらっしゃるではないか。「摂取不捨」(摂め取って捨てたまわず)と、聞かせていただいてきたではないか!

つながりあって

人生には、誰にもわかってもらえず、真っ暗闇の中で独りぼっちだと思うことが一度はあることでしょう。そんな時、「南無阿弥陀仏」を称(とな)えると、阿弥陀さまのよび声が聞こえてきます。

「一人ではない」
「おまえを救いたいのだ」
「まかせよ」

まるで、厚い雲が割れて光が差し、闇で見えなかった光る一本の道が与えられていることにようやく気付かせていただいたように、一歩踏み出す勇気が湧いてくるのです。

「一人じゃない」というお慈悲に気付かされ、人生を歩む力をいただいた者どうしがつながり大切にしあって、この人生を生き抜きたいと思うのです。

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