罪を罪とも知らずに

本願寺新報 2012(平成24)年4月10日号掲載
稲田 英真(いなだ えいしん)(大分・光國寺副住職)

郷に入っては郷に

カット 林 義明

数年前、十数人でインドに旅行に行った時のことです。インドの人は牛をとても大事にします。牛はヒンドゥー教のシヴァ神が乗る神聖な動物とされているからだそうです。インドでは街中のいたる所に牛がいましたが、牛が道路をふさいで寝ている場合も、人や車が牛をよけて通るのです。人間よりも牛が優先ということだそうです。

ですからインドの人は牛を絶対に食べません。そして旅行者である私たちの食事にも、牛肉が出されることは一切ありませんでした。あの有名なハンバーガーチェーンも、インドでは牛肉は一切使用せず、鶏(とり)肉などで代用しているそうです。

私たちの旅行中、現地ガイドとして案内してくれたのは、インド人のJさんでした。日本に住んでいたことがあるそうで、日本の文化をよく知っていて、流暢(ちょう)な日本語を話す方でした。

10日間ほどの旅行日程も中盤にさしかかった頃でした。ある日の晩、ホテルの部屋でJさんを囲んで話をする機会がありました。その時、牛の話になり、ある人がJさんに次のような質問をしたのです。

「インドの人は牛を食べないけれども、外国では牛は普通に食べられています。このことについてインド人としてどう思いますか?」

Jさんはこう答えました。

「他の国には他の国のやり方があるのだろうから、それをとやかく言うことはできません」

Jさんは観光ガイドという職業柄か、幅広い国際感覚を持ち合わせているようでした。そしてさらに質問は続きます。

「日本に何年間も留学していたと聞きましたが、日本でも牛は食べなかったんですか?」

すると、「実は、牛とは知らずに間違って食べたことはあるけれど、それを今でも後悔しています。でも、自分から牛を食べようと思って食べたことは絶対にありません」と。

そして、これまでのにこやかな表情を一変させ、「逆に、インドに外国人がやって来て、牛を食べたりすることがあったなら、それは許せない。黙って見ていられない」と言うのです。

突然真顔になったJさんを見て、私たちは少し驚いたのですが、この話は、一応これで終わったのでした。さらにその後もしばらく、いろいろな話をしつつ、全体としては和やかな雰囲気で、その場はお開きとなりました。

その時の部屋のテーブルには口の開いたお菓子の袋がならんでいました。日本から持ち込んだポテトチップスが、実はグリルビーフ味だったことに気づいたのは、Jさんが自室へ戻った後のことでした。

インドの文化や習慣は日本とまったく異なるものでしたが、旅行中は「郷に入っては郷に従え」という言葉があるように、異国の地の文化を尊重しようと努めていたつもりでした。Jさんが、ポテトチップスの袋に描かれた牛の顔に気づいていたかどうかはわかりませんが、広い心で許してくれていたのかもしれません。

気付くことすら・・・

仏教では、自分の犯した罪を認め、恥じることを「慚愧(ざんぎ)」といいます。罪を犯さないことが第一ですが、いったん犯してしまったなら、それを反省し、同じ過ちを繰り返さないようにしなければならないということでしょう。

けれども慚愧は、自分自身が罪を犯したということに気づくことが前提となります。それがなければ慚愧はありえません。

親鸞聖人は晩年、阿弥陀さまのはたらきに照らし出されたご自身の姿を「無慚無愧(むざんむぎ)のこの身にて」(註釈版聖典617ページ)と述懐されています。

これは、罪を罪とも知らずに日々を過ごす私たち凡夫の姿であり、それはそのまま救われていく者の姿でもあることをお示しくださったものと受け止めたいと思います。

グリルビーフの一件は、幸いにも後で気づくことができましたが、おそらくそのほかにも、外国人である私たちが、Jさんにいやな思いをさせたことがあったことでしょう。

4月に入り、新たな生活が始まった方も多いのではないかと思います。実は私もその中の一人です。生活環境は変わっても、愚かな凡夫であることは変わりありませんが、今後もお聴聞を忘れることなく、精いっぱいに過ごしていきたいと思います。

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