親の願い 子どもの姿

本願寺新報 2012(平成24)年5月 1日号掲載
戸川 教宏(とがわ のりひろ)(大阪・勝圓寺衆徒)

「おやさま」と呼ぶ

カット 林 義明

私たちのご法義、浄土真宗のみ教えは「他力本願」(他力回向(えこう))のみ教えであるとよくいわれます。

阿弥陀さまは、ふらふら生きているこの私を、抱きかかえて共に歩んでくださいます。そしてこの娑婆(しゃば)のいのち終われば、お浄土へお連れくださり、私をさとりの身と仕上げてくださるのです。他力本願という阿弥陀さまの願いとはたらきは、私の親となってみせることがその中心であるといえるでしょう。

「間違いなく、お前の親はここにおるぞ!安心しておくれ」と、およびくださるその声が、いま私の口から「南無阿弥陀仏」と、お念仏となってくださいます。そして、この私をお念仏する身に仕上げてくださった阿弥陀さまのお慈悲の心に包まれて大きな安心をいただき、私たちはお念仏とともに阿弥陀さまを「おやさま」とお呼びしてまいりました。阿弥陀さまは私をいつも無条件に抱(いだ)いてくださいます。

確かにお経(きょう)さまをいただきますと、讃仏偈(さんぶつげ)の最後に、

たとひ身(み)をもろもろの苦毒(くどく)のうちに止(お)くとも、わが行(ぎょう)、精進(しょうじん)にして、忍(しの)びてつひに悔(く)いじ(註釈版聖典13ページ)

と、阿弥陀さまが私の親となる決意がうかがえます。

阿弥陀さまが法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)のお姿をして、師匠の世自在王仏(せじざいおうぶつ)にひれ伏される厳しいお姿です。でもそのお姿を、厳しい修行と精進のほどを、凡夫である私たちに説き示して見習わせようとされているのではありません。

人の親も、どれほど仕事で疲れていても、家に帰って幼い子が飛びついてくれば、笑顔で向き合い、優しく抱きしめます。子にいらぬ詮索をさせまいとの親の慈悲心が、子には疲れをみせまいとさせます。やがて子どもは親の優しさに安心をしつつ、この子の親でありたいという親の強い決心に、親の名を呼ぶ子と育てられていきます。

本当の願いとは

ところで最近、阿弥陀さまを「おやさま」と呼ぶのは、あまりにも感情的すぎる。また具体性がない、現代に合わないなどと、私たち人間の発想で「おやさま」と呼ばなくなっているようです。背景には、阿弥陀さまの願いとはたらきを、今の教育や思想によって把握してしまおうとする傾向があるように思います。

「浄土真宗は、わかったといったら間違っている」といわれます。阿弥陀さまのはたらきを、私の知識で理解できると思うなということでしょう。私が理解できるくらいの阿弥陀さまは、私の生き方や考え方が変われば、崩(くず)れていく阿弥陀さまです。そのことにいつも気を付けておくことが大切でしょう。

私が大学院の受験に臨んだ時のことでした。試験日の朝、母親が「お前はすでに、私たち両親の願い通りの子どもだよ」と言うのです。その時は、まだ受験もしていないのに不思議だなぁと、思ったくらいでしたが、何かホッとしました。

しばらくして、よくわかることができました。私が大学院に進学しようとしたのは、親の願いに応えようと思ったからです。だから何としても合格しなければならないと思っていました。しかし、実際の親の願いは違ったのです。親の願いは、私がお坊さんになることでした。だから、私がお坊さんになることに前向きになった時、親は願いがかない、とてもうれしかったのです。大学院を目指して勉強することとか、ましてその合否は、私が勝手につくり上げた親の願いだったのです。

私はそれがわかった時、恥ずかしい自分を思い知らされました。親の願いは、子である私が詮索できるような、浅いものではありません。子が子の知恵で詮索した親は、いつか崩れていく関係です。子はただ、親の願いを親の慈愛を通して安心をもらうだけなのでしょう。

私たちは、法蔵菩薩の厳しいご修行があるから「おやさま」と呼ぶのではありません。厳しい姿を隠し、「安心しなさい」と私を抱きかかえて「南無阿弥陀仏」と、お慈悲の仏さまとなってくださった、その阿弥陀さまのおはたらきに救っていただいています。

阿弥陀さまを「おやさま」とお慕いし、お念仏申しながら、手を合わせ頭を下げさせていただくばかりです。それが阿弥陀さまの子である姿なのです。

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