いのちは誰のもの

本願寺新報 2012(平成24)年8月20日号掲載
松本 智量(まつもと ちりょう)(東京・延立寺住職)

本人でも私物化ダメ

カット 林 義明

昨年11月21日、落語家の立川談志さんが亡くなりました。75歳。

「最後の名人」「100年にひとりの天才」などと、談志さんの名声は死後ますます高まりました。その凄(すご)さが多方面から語られているため、生前は談志さんの落語に興味がなかったけれども、あらためて聴いてみたいと思った人が少なくないようです。そのために死後続々と新たにDVDやCDが発売され、よく売れているようです。

ある人が、談志さんのお弟子さんにこう聞いたそうです。

「いろいろ発売されているので、どれを聴いたらいいかわかりません。これが談志のおもしろさだ、これを聴けば談志の凄さがわかると言えるような噺(はなし)をひとつ推薦してください」

それに対するお弟子さんの答えはこうでした。

「それなら、志の輔の落語を生で聴いてください」

そのお弟子さんの言いたいことはこうです。

談志の落語の凄さやおもしろさは生で聴いて初めてわかるもの。いや、談志に限らず落語というのはそういうもの。たしかにDVDやCDで落語を聴くのもいいが、それはもはや記録でしかない。でも、談志の生きた落語は、志の輔に、志らくに、談春に、談笑に、その他の弟子の落語の中に確実に生きている。その弟子たちが今、高座にあがっている。だから、談志の落語を今聴きたかったら、その弟子の落語を生で聴いてほしい。そこに必ず談志は生きている、と(コラムニスト・堀井憲一郎氏の発言より)。

このお弟子さんのことばを私は、とても仏教的いのち観に重なるなあと受け止めました。

談志さんの落語は、談志個人が私物化できるものではなく、弟子たちと共有されていたのでしょう。

ここでの「落語」を私は「いのち」と読み替えます。談志さんのいのちは記録や思い出の中にではなく、弟子のいのちの中にあります。談志さんのいのちは弟子をはじめとする多くの方々が共有しているのです。

落語は人間の業の肯定

「君のいのちは誰のもの?」と問われたらどうお答えになりますか。

「ぼくのいのちはぼくのもの」

小学生でなくてもほとんどの人がそう答えるでしょう。

でも仏教的にこの問いに答えるなら、「誰のものでもありません」。仏教から見たいのちは、その身ひとつの中に小さく収まっているものではなく、縁にしたがって大きくひろがり大きくつながり大きくはたらいているものです。到底私物化できるものではないのです。それを私物化できる、と疑わなくなってしまったところから、社会の分断化と人の孤立化が始まったと考えるのは、大げさではないと思います。

「落語とは人間の業の肯定である」。談志さんが弱冠28歳にして著した『現代落語論』にあるこのことば以上に、落語を一言で表わしたことばを知りません。ろくでもない人間のろくでもなさを、どうしようもねえなあとひっぱたきながら抱き取る。「肯定」と言ってしまうと開き直りのようですがそうではなく、みっともなくしか生きられない人間への静かなまなざしがここにあります。そこに私はどうしても親鸞聖人のまなざしを重ねてしまいます。

「さるべき業縁(ごうえん)のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」(註釈版聖典844ページ)。条件と環境によっては、どんなにしないでおこうと思っても悪いことをしかねない、あるいは思いがけずも良いことをしかねない我(わ)が身であると表白(ひょうびゃく)し、賢(さか)しらに厭(いと)うことなく隠すことなく、そんな我が身であったと肯(うなず)いていった親鸞聖人のことばが、先の談志さんのことばに重なります。

談志さんは宗教嫌いと自称し、最期まで破天荒な発言を続けていました。しかし、その言葉とは裏腹に、芸や生き方から弟子たちや観客へ宗教的な深みを湛えたものを伝えていたように思えてなりません。

談志さんの公式ウェブサイトは今も開設中です。タイトルはなんと「地球も最後ナムアミダブツ」。

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