ともにこれ凡夫(ただひと)

本願寺新報 2013(平成25)年2月20日号掲載
高務 哲量(たかつかさ てつりょう)(福井・千福寺住職)

幻の完全試合

カット 林 義明

2010年6月、大リーグ・デトロイトタイガースのアルマンド・ガララーガ投手は、9回ツーアウトまでパーフェクトピッチングを続けていました。27人目の打者が打った一、二塁間へのゴロを一塁手が捕球し、ベースカバーに入ったガララーガに送球しました。塁審はセーフのジャッジを下し、それに対してタイガースの選手たちは大いに抗議し球場全体も騒然となりましたが、判定は覆(くつがえ)りません。

試合終了後、ビデオ再生を見たこの塁審は明らかに自分のミスジャッジであると認め、すぐさまガララーガ投手に詫(わ)びました。審判のミスジャッジによって大リーグ史上21番目のパーフェクトゲーム達成投手になれなかったのですから、ガララーガ投手の無念さは想像に余りあるものがあります。

ところが彼は、「たぶん僕よりも彼のほうがつらい思いをしているだろう」と反対に気遣い、心から詫びるこの審判を「完全な人間なんていないのだから」と言って、寛容な態度で許したのです。

唐突なようですが、このニュースを聞いて私は、聖徳太子の「憲法十七条」の第十条の言葉を思い出しました。

「われかならず聖(ひじり)なるにあらず、かれかならず愚(おろ)かなるにあらず。ともにこれ凡夫(ただひと)ならくのみ」(註釈版聖典・1436ページ)

日本に仏教を受け入れて、仏教精神にもとづく社会のあり方を目指されたのが聖徳太子でした。もちろんガララーガ投手が聖徳太子や「憲法十七条」を知っていたはずはありませんし、彼の示した態度を仏教精神に裏付けられたものというつもりもありません。ただ世の東西を問わず、人は自分の非はなかなか素直に認めようとせず、逆に自分への不利益に対しては怒りや報復の態度をあらわにしがちです。そうであるからこそ、相手の過ちをせめないという寛容のこころは、人類の精神史において培われてきた最も尊いもののひとつであると思います。

自分のことは棚上げに

普段の生活の中で、人の善し悪しを口にして他者を裁いているのが、偽らざる私の姿です。
私たちが人を裁き批判する時には、どのような位置に立っているでしょう。自分の不完全さを棚上げして、あるいは「自分も立派なことは言えないけれど」と抜け道を作っておいて、他者の批判をしているのではないでしょうか。

『歎異抄』後序(ごじょ)のお言葉が思い起こされます。

「本当にわたしどもは、如来のご恩がどれほど尊いかを問うこともなく、いつもお互いが善いとか悪いとか、そればかりをいいあっております。親鸞聖人は、『何が善であり何が悪であるのか、そのどちらもわたしはまったく知らない。なぜなら、如来がそのおこころで善とお思いになるほどに善を知り尽(つく)したのであれば、善を知ったといえるであろうし、また如来が悪とお思いになるほどに悪を知り尽したのであれば、悪を知ったといえるからである。しかしながら、わたしどもはあらゆる煩悩をそなえた凡夫(ぼんぶ)であり、この世は燃えさかる家のようにたちまちに移り変わる世界であって、すべてはむなしくいつわりで、真実といえるものは何一つない。その中にあって、ただ念仏だけが真実なのである』と仰(おお)せになりました」(現代語版『歎異抄』50ページ)

まことなるものに聞き触れるとき、わが身のまことならざる姿が知らされます。そこから、ともにこれ凡夫であり、真実なる如来さまから哀(かな)しまれているものどうしでしたね、という共感と寛容のこころが、私のうちにひらかれていくのではないでしょうか。こうした態度は、決して綺麗(きれい)ごとでも生ぬるいことでもなく、人間の持ち前である自己中心性と対立する厳しいものであるはずです。

お念仏の教えに育てられる人は、しばしば蓮(はす)の華(はな)に譬(たと)えられます。お念仏の教えは、一つ間違えば根から腐(くさ)らせてしまう汚泥(おでい)の毒を、逆にしなやかに私の栄養と転じ、泥(どろ)に汚(けが)されることなく清浄(しょうじょう)な花を咲かせ、汚泥をも麗(うるわ)しく荘厳(しょうごん)していく力となってくださいます。涼(すず)しげに咲く白蓮華(びゃくれんげ)の根は、地中で汚泥と必死に闘(たたか)い続けているに違いありません。そして共感と寛容のこころは、その底にこうした厳しさを内包するものであればこそ尊いものといえるのでしょう。

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