真の仏弟子

本願寺新報 2013(平成25)年3月20日号掲載
後藤 明信(ごとう みょうしん)(九州龍谷短期大学教授)

法要つとめる心持ち

カット 林 義明

先日、故郷を離れて久しいご門徒さんから、うれしいメールが届きました。
「おかげさまで、夫婦ともどもご本山御影堂においておごそかに帰敬式(ききょうしき)を受け、法名をいただきました。すぐにご報告、御礼に参上すべきところ、誠に失礼ながらメールにて取りあえずお知らせいたします。ありがとうございました」という報告です。
また「これからは浄土真宗のみ教えを大切に過ごしてまいります」と付け加えてありました。

九州から首都圏に出られてからも、故郷のお寺を忘れることなく、おかみそりを受け、法名をいただこうと思い立たれたことが何よりありがたく、うれしいことでした。すでにお浄土の人となられたご両親も、きっと喜んでいてくださることでしょう。

私たち浄土真宗の門徒は帰敬式を受けることにより、親鸞聖人が仏・法・僧の三宝(さんぼう)に帰依し、仏弟子として生き抜かれたように、そのみ教えに生きようという思いを新たにさせていただきます。

帰敬式を受けると、お釈迦さまの教えを聞くもの、お釈迦さまの弟子として、釋(しゃく)(釈)の一字を冠した、釋○○という法名をいただきます。仏弟子としての名のりであり、仏弟子として生きるということの表明です。

すべて阿弥陀さまが

仏弟子という言葉は、あまりなじみがないかもしれません。一般的に弟子というと、師匠から弟子へと特別な技術や技能を伝承する世界で多く使われるようです。学問、芸術の分野や、落語など古典芸能の世界などが思い浮かびます。師匠と弟子の個人的な関係が重要で、手取り足取り指導するというイメージです。でも、仏弟子というときはそうではありません。

『歎異抄』には「親鸞は弟子一人ももたず候ふ」(註釈版聖典835ページ)という有名なお言葉があります。お念仏は私が教えたり、こと細かに指導したから伝わったというのではなく、念仏申させずにはおかないという阿弥陀さまのはたらきによって、念仏申す身になったのですから、弟子とか師匠という人間関係で語るべきことではないのです、と教えられています。
善導大師は「深く信じる心」を説明する中に「真の仏弟子」という言葉を使われています。

「また、深く信じるものよ、仰ぎ願うことは、すべての行者(ぎょうじゃ)たちが、一心にただ仏(ほとけ)の言葉を信じ、わが身もわが命も顧(かえり)みず、疑いなく仏が説かれた行(ぎょう)によって、仏が捨てよと仰せになるものを捨て、仏が行ぜよと仰せになるものを行じ、仏が近づいてはならないと仰せになるものに近づかないことである。これを釈尊の教えにしたがい、仏がたの意(い)にしたがうという。これを阿弥陀仏の願にしたがうという。これを真の仏弟子というのである」(現代語版『教行信証』173ページ)と、この私のためにおこしてくださった本願に、お念仏一つを選び取ってくださったお心を聞きひらいてお念仏申すものを「真の仏弟子」といわれたのです。

親鸞聖人はこれを他力の信心をいただいた念仏者のことだと受けとめられました。とても自分の力で仏のさとりに至ることなど、考えられもしない愚かな私が、こんな私をこそ見捨てておけないのだと、はたらき続けてくださっている本願名号「南無阿弥陀仏」によって、無上のおさとりを開かせていただくからこそ、真の仏弟子といわれるのです。

お釈迦さまをはじめ、諸仏と呼ばれる無量無数の仏さまたちも、この私に「南無阿弥陀仏」とお念仏申させようと、真実の慈悲をもってわが子を育てはぐくむ父母のように、ありとあらゆる手だてをもって、無上の真実信心をひらきおこしてくださったのです。

この真仏弟子釈の結びには、「悲しきかな」と遇(あ)いがたき本願に遇いお念仏申す身にさせていただき、安心して今を生きることのできる身をたまわりながら、相変わらず自己中心の小さな私から抜け出せず不平不満のただ中にある身を「恥(は)づべし、傷(いた)むべし」と悲嘆されています。

仏弟子として名のりをあげた私たち真宗門徒は、阿弥陀さまの本願に出遇い、無上のおさとりを開かせていただくよろこびとともに、この身の現実はどこまでも本願に背き続けていることを教えられ、傷み悲しみをもって歩ませてもらいます。

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