薫習(くんじゅう)の世界

本願寺新報 2013(平成25)年4月10日号掲載
緒方 正倫(おがた しょうりん)(前京都女子高校校長)

大人のあり方が影響

カット 林 義明

新しい年度が始まり、日本列島も春爛漫(らんまん)の季節を迎えました。ピカピカの新入生たちが、それぞれの世界で輝き羽ばたいています。春の陽光に包まれてはしゃぐ子どもたちの笑顔は、何ものにも替えがたい尊いものです。

しかしながら今、子どもたちを取りまく環境は大変きびしく、学校でのいじめや教職員による体罰、さらには家庭内での虐待など、昨年1年間のまとめによりますと、これまでの統計で最も多かったことが報じられていました。残念ではありますが、その中にはかけがえのない尊い〈いのち〉を自ら絶ってしまった児童や生徒が含まれていることは周知の通りです。

このようないじめ・体罰・虐待はどうして起こるのだろうかと、その原因を探ってみますと、一つには大人社会の価値観の倒錯やその生き方などが影響していると言っても過言ではありません。さらに追跡をいたしますと、戦後教育において宗教教育を忌諱(きき)してきた文教施策のもたらした弊害と言えなくもありません。自分の権利の主張には長(た)けていても義務を遂行することは他人任せで、自分の思い通りにならなければ他人のせいにするなど、自己中心のライフスタイルが反映しているとも言えるのです。

かつての家庭には独自の家風があり、学校にはよき校風があって、それぞれが人間性を育(はぐく)む学びの場でありました。今、その学びの場が機能せず、親も教師も自己主張や防衛に腐心して、都合の悪いことは隠蔽(いんぺい)する体質で、人間存在の原点である〈いのちの教育〉についての学びを置き去りにしてきたからではないでしょうか。生きとし生けるものの〈いのち〉の尊厳について真摯に向き合うことが、今あらためて問われているのです。その〈いのち〉の尊厳とは、弱者は弱者のままで尊重され、共に生き、生かされる絆づくりが求められているのです。

決して一人ではない

京都女子学園では毎年、宗教文化研究所主催の懸賞論文を、児童・生徒・学生から募集しています。過年度、入賞した高校2年のBさんは、体育祭の体験をもとに文章をまとめました。その一部を紹介いたします。

『体育祭名物、応援合戦の人文字は、一人ひとりに割り当てられた役割を正確にこなさないと全体として完成しない。呼吸を合わせ、プラン通りの動きを何度も練習を重ね、みんなの気持ちが一つになった時に初めて、あの感動の発表が完成するのだ。歴史と伝統の重さを感じ、強く心を揺さぶられた瞬間は鳥肌が立った。

親鸞聖人は、人間は善行(ぜんぎょう)や学問によって浄土往生を遂げることは難しいため、己の罪深さを自覚することが大切であると説かれた。このことを今の自分にあてはめてみると、自分一人がよければよい、自分の行いは正しいのだというような思いあがった心ではなく、周りのみんなに支えられ、教えられ、助けられてはじめて自分が存在するのだということを自覚せよとのことではないかと思う。

お釈迦さまの教えにある「縁起(えんぎ)」とは、ありとあらゆるものは互いに関係しあい「もちつもたれつ」の状態にあることを表す。この世にはただひとつだけで存在するものはないのだ。私が思い悩み、苦しんでいる時も決してひとりではないのだ。目には見えないかもしれないが、私にはいつも両親や友達、先生方や先輩方の手が、そして阿弥陀仏の救いの手が差し伸べられているのだ。宗教の授業で「縁起」という教えを学んだことで、私の心は救われたのである。

今年も先輩方の一糸乱れぬ素晴らしい演技を見て、来年は自分に番が回ってくると、誰もが不安を覚えたかもしれないが、お互いに手を差し伸べ合い気持ちが繋(つな)がっていけば、大きな一つの「輪」がうまれる。そんな繰り返しが広がっていけば、うれしいことも悲しいこともみんなで共有できる関係になれる。私たちはひとりではなく、大きな温かい眼差(まなざ)しのなかで見守られているのだ』
と結んでくれています。

このような文章は毎年、学校が発行する伝道誌「求道(ぐどう)」に掲載し、在校生(保護者)全員に配布して閲覧してもらいます。学校でも家庭でも、それぞれの場におけるはたらきかけと学びは、知らず知らずの間に成長期の子どもたちには豊かな心を育む種まきとして、人格形成にとても重要なのです。この「薫習(くんじゅう)」の世界を大切にしていきたいものです。

ホーム教えみんなの法話薫習(くんじゅう)の世界

ページの先頭へ戻る