桜が教えてくれたこと

本願寺新報 2013(平成25)年4月20日号掲載
立川 証(たちかわ さとし)(富山・浄教寺住職)

報道の力は大きい

カット 林 義明

私のあずかるお寺は、田舎の小さなお寺です。境内の本堂の屋根に枝がかかりそうな場所に、斜めに生えた桜の木がありました。ほかの桜から遅れて4月の終わりごろの温かい時期に花を咲かせ、天気がいい日には、その桜の下で花見をしながら家族でお昼ごはんを食べたりしていました。

4年ほど前、門徒の方がきれいに咲いた桜を見て、この桜はなんという品種ですか、と尋ねてこられました。詳しいことは知らないと伝えると、植物園で聞いてみますと言われるので、枝を切って、持って行ってもらいました。

いろいろな調査の結果、この桜が、どこにもない新種であることがわかりました。名前を調べようとしたら、名前がない桜であるとわかったのです。

このニュースは、地元の新聞やテレビで大きく報道されました。メディアの力は大きく、その年の春はずいぶんと忙しくなりました。電話はひっきりなしに鳴り、境内にはカメラを持った人がたくさん訪れ、暗くなるまで人が絶えませんでした。はじめは、ようこそようこそと出迎えていたのですが、だんだんと説明するのも追いつかなくなり、お参りにも行けない状況となりました。あわてて案内のチラシを作りましたが、コピーしたものがすぐになくなり、結局、1000枚ほど印刷することになりました。本堂で手を合わせていかれる方も多く、桜のおかげで、たくさんのご縁を結ぶことができました。

仏さまのそばなのに

しかし、たくさんの方が来られると、困ったことも起こります。もっとほかに見るものはないかと、境内の裏のほうまで見に来られる方もいらっしゃいます。うっかり洗濯物も出しておけません。犬の散歩がてら来られて隅の方で用を足して行かれたり、前の道路を車がふさいでしまって出入りができなくなったり、近くのお寺に迷い込む人がたくさんあって苦情がきたりと、いろいろな対応に追われました。

はじめのうちは有名になった気分でうれしかったのですが、だんだんと、こんなことなら知られないほうがよかったんじゃないか、とも思うようになりました。

そんなある日、庫裏(くり)の2階の窓から、そっと境内の様子をうかがっていると、見なれない、赤い高級外車が門前に止まりました。中からは、濃い色のメガネをかけた、とても派手なおばさんと、小学生くらいの男の子が2人現れました。

その姿を見た時、私は、この人たちもきっと桜を見に来たので、お寺には用のない人たちだから出て行く必要はないな、と思いました。案の定、子どもたちは「これや! これや!」と大きな声を出して桜のほうへ走ってきました。
「やっぱりね」と思っていたら、後から来たおばさんが、もっと大きな声で子どもたちを叱りました。
「あんたら、お寺に来たら、最初に仏さまにあいさつせんとあかんでしょ!」

子どもたちは素直に従って、おばさんといっしょに本堂のほうへと歩いて行きました。私は、人は見かけによらないなと感心しましたが、よく考えると、すべての衆生に願いをかけている阿弥陀さまのそばで、この人は関係ある、この人は関係ない、とより分けている自分の姿が急に恥ずかしくなりました。

足を運んでくださった方はすべてご縁のある方に違いないのに、つながりを見ようとしなくなっていたのは、私自身であったと反省させられました。
桜の花が咲いている間はにぎやかだった境内も、散った後は静かになりました。

少し遅れて訪れた方は、もう葉ばかりになった桜を見上げて残念そうにされますが、花が咲いていない季節にも、桜は生きているのです。咲いては散る「花の命」のその奥で、それぞれの命を育む広い根や、支えとなる大きな幹や枝も含めた「木の命」がはたらいていることに気づくとき、一人一人が「無量寿(むりょうじゅ)」という大きないのちから願いを注がれて生きている。私のいのちが私だけでは終わらない世界が見えてくるように感じるのです。

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