いのちの行方

本願寺新報 2013(平成25)年10月 1日号掲載
長原 真了(ながはら しんりょう)(長野・善立寺住職)

ラジオで仏事相談

カット 林 義明

私の住む地域では、葬儀の大半が葬儀社の会場で行われます。ある時、葬儀の前に放映されていたビデオ映像で、宗派の紹介が行われていたのですが、「浄土真宗は、亡くなると誰もが極楽浄土に生まれて仏さまとなる有り難い教えです」というコメントを聞き、がくぜんとしました。

日常生活の中で、「死んだら仏」という安易な考えや言葉を聞くことがありますが、経典(きょうてん)のどこを探しても、「死んだら誰もが仏となって浄土に生まれる」とは一言も書いてありません。安易な往生論が安易な生きざまとなっていないか、自らを問いたいものです。

私は地元のラジオで、仏事相談の番組を担当しています。日頃の素朴な仏事に関する質問や疑問をはじめ、さまざまな苦しみや悲しみの想いを聴かせていただいています。また寺院や僧侶、宗教者への叱咤激励(しったげきれい)をいただくこともあり、その一つひとつが、私にとっての大切な学びとなっています。

昨年の暮れに、聴取者の方からお手紙をいただきました。60代後半の女性の方で、その手紙には「人は死んだらどうなるのですか?」「死んだらどこへ行くのですか?」という問いが記されていました。

春先にお嫁さんを亡くされ、残されたお孫さんから「お母さんはどこへいったの?」「何になったの?」と、ことあるごとに尋ねられるそうです。ある時、はからずも「お母さんは星になった」と伝えたその日から、お孫さんは毎日、夜空の下に立って母親を探しました。その姿が余りにもふびんで、本当にそのような答え方でよかったのかという自責の想いとともに、その手紙は綴られていました。

後日、その方とお会いして、お話を伺ったのですが、死んだことがない人間にとって、死んだらどうなるのか?どこへ行くのか?という質問に応えることはとても難しいことです。心に汗をかきながら聴き、うなずかせていただいたのが、私の正直な姿でした。一方で、「星になる」という受けとめは、死を受容する一定の期間で効果のある手段であっても、その悲しみを背負って生きる私の人生の歩みにはならない、つまり限界があるという率直な思いをお伝えしました。そして、お嫁さんが伝え、お孫さんが問うた「いのちの行方」を、私自身の問いとして歩むことの大切さを述べ、お念仏によって拓(ひら)かれる「さよならのない世界」への想いを共にさせていただきました。

悲しみに心を寄せる

私たちに、死後の世界の実証はできませんが、すべてのものを手放し、愛するものと必ず別れなくてはならない「いのちの事実」が私の問題となった時、人は自らの「いのちの行方」を求めずにはおれないのだと思います。そこでは「浄土があるとか、ないとか」で量(はか)られるのではなく、「浄土がなくてはならないもの」として存在するはずです。

親鸞聖人は、阿弥陀さまの「どんなことがあっても、私はあなたを見捨てることはしません。かけがえのないこのいのちを、あなたらしく力の限り生きなさい」という声を聞き、そのお心を「疑いなく信じ喜んで生きる者は、必ず浄土に仏として生まれる」とお示しくださいました。阿弥陀さまのお心をいただいて生きる者には、必ず会える世界が拓かれているのです。

その後、ご質問の女性がお孫さんに話をされました。その9歳の男の子は「ぼくはお母さんに会いたい。お母さんに会うため、ぼくは仏さまの話を聞きたい」と言ったそうです。今は共にお参りのご縁をいただいていますが、これは別れの悲しみの中で道を得た者の姿であり、同時にこの子にとって、浄土とは今の自分を照らす確かな力となっているのだと感じています。

「いのちの行方」を浄土といただくことは、阿弥陀さまの「同悲同感」のお心、悲しみを同じくし、その想いに心寄せるお心を、我が身の歩みとしていただいていくことに他なりません。だからこそ、いのちの尊厳性を損なうさまざまな社会の問題に対して、私が決して傍観者でなく、不条理・不平等の排除に向けた実践者であることが、念仏者としての生き様でもある、と私はいただいています。

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