どこにいても どんな時も

本願寺新報 2013(平成25)年10月20日号掲載
加藤 真悟(かとう しんご)(大阪・自然寺住職)

予定通りのほうが・・・

カット 林 義明

もう7年前になります。私は数人の友人たちと仏跡参拝旅行を計画し、およそ8日間、インドに滞在しました。すでにインドの旅行を経験した方々から、「現地に入ると、なかなか時間通り、予定通りに行動するのは難しいよ」と聞かされていました。しかし、インドでの最終日、帰国する航空便の遅延には、ほとほと疲れたことでした。

3時間ほど待たされたでしょうか。私たちと同じ便に搭乗予定の人の中には、怒り半分に、説明を求めてカウンターに詰め寄る人もいました。そのいずれもが、インド以外の国の人です。そこで、ずっとご一緒くださった現地ガイドの方に、疑問に思っていたことを友人と共に尋ねてみました。

「インドの人は待たされることに、なぜ苦情も言わず、憤りもしないのですか?」

するとガイドさんはニッコリ笑って、私たちに答えてくれました。

「私はいつも同じ質問を受けますよ。でも考えてみてください。予定通りに物事が進む方がおかしくないですか?あなたたちは仏教徒ですよね?『命は風前の灯(ともしび)のようなもの』だと、聞いたことはないですか?」

中国の善導大師のお言葉の中に聞いたことがありました。

「灯(ともしび)の風中(ふうちゅう)にありて滅(めっ)すること期し難きがごとし・・・」

(註釈版聖典七祖篇669ページ)

私たちは「聞いたことがあります」と、その方に答えました。

「日本人は、『命は風前の灯・・・いつ壊れても、いつ消えてもおかしくない命』だと言われるのに、灯(ひ)の付くロウソクの長さだけを眺めていないでしょうか?『予定通り。まだしばらく大丈夫だ』と・・・」

先の善導大師のお言葉は、「忙々(もうもう)たる六道(ろくどう)に定趣無(じょうしゅな)し」と続きます。

「私の過ごすこの世界には、定まるところなどない。みんな壊れていく。本当にあてになるものなどない、迷いの世界なのだよ」

言われてみれば、そのロウソクも灯も、定まることのない、変転極まりない世界にあるのです。一度風が吹けば、どのようなことがそれぞれの身の上に起こっても、何もおかしくないのでしょう。なのに、それが自身のことだとは、なかなか思えないのがこの私です。自分に嘘をつきながら、自分をだましながら、その自分をあてにしながら生きているのが、私なのでしょう。

私が仏さまになる

6月25日、このガイドさんに一緒に質問してくれた友人が、今生(こんじょう)の縁尽き、お浄土に往生しました。突然のことのように感じました。彼の息絶え横たわる姿を目にした時には、やはり「嘘だろう?」とさえ思い、涙した私がいました。しかし、「嘘」は私自身でした。

「おのおの聞け。強健有力(ごうこんうりき)の時、自策自励(じしゃくじれい)して常住(じょうじゅう)を求めよ」

善導大師は、「力の有る今こそ、自らを励まして、常住の法を求めよ」とおっしゃいます。

壊れていくことに気付かぬふりをしていた私が、その事実と向き合った時、迷い、戸惑いながら恐れおののくこの私自身が願われている世界があります。その願いによって開かれた道があります。

「お前の人生を虚(むな)しく終わらせはしない。安心してくれ。必ず救う。たのむから、この阿弥陀仏をよりどころとする道を歩んでおくれ」

阿弥陀仏は、自分をさえだましながら生き、戸惑い、ただ壊れていくことに虚しさしか抱けない私を、今、支えきってくださいます。それは、阿弥陀仏に導かれ、育まれていく道です。目覚めさせられていく道です。私自身を、もう壊れることのない、本物の値打ち者に仕上げてくださる道を、ととのえていてくださるのです。それがお浄土への道です。迷う者を目覚めさせる仏さまに、私がならせていただく道です。

「力有る今、この今しかないで。加藤さん、やっぱり今しかないんやで。自分にだまされたらアカン。僕が加藤さんを支えていくからね」

彼は今現に、この私を目覚めさせるべく、導き育むはたらきとなってくださっています。今生の縁、いつ尽きるかわからないこの私の歩む一歩一歩を、彼はずっと見ていてくださるのです。

どこにいても、どんな時も・・・。

ホーム教えみんなの法話どこにいても どんな時も

ページの先頭へ戻る