大いなるはたらき

本願寺新報 2014(平成26)年3月 1日号掲載
宮部 誓雅(みやべ せいが)(大阪・誓覚寺住職)

同じ場所にたどり着く

カット 林 義明

 毎年1月下旬から2月上旬にかけて、北海道の北東部に流氷が漂着します。シベリア大陸の沿岸部でできた氷は、長い距離を南下して北海道にたどり着くようです。

 その年によって気象状況は異なります。しかし、嵐が吹き巻こうが、激しい波が立とうが、その氷は、何ものかの力で引きずられるように、ある一定の方向に進み続け、必ず同じ場所にたどり着くというのです。

 何とも不思議なことだなと思っていました。海に浮かぶ船であれば、嵐にあえば嵐に流されたり、激しい波に襲われて航路を変えることもあるでしょう。

 しかし、流氷はそうしたことを無視して風に逆らい、何ものにも影響されず決まった方向へと進み続け、必ず同じ場所にたどり着くというのですから不思議なことです。

 けれども、よくよく調べてみれば、流氷の行方は、その年に吹く風や波によって決まるのではなく、海の中を流れる潮の流れによって決まるのだというのです。

 私たちが日常使う言葉で「氷山の一角」という言葉があります。

 これは、見えている部分は、ほんの一部分であって、見えないものが大半であるといったことを表す時に使う言葉です。

 流氷も同じように、海面上に1メートルほどの高さがある氷は、おおよそ海面下に6メートルほどの深さを保っているそうです。

 つまり、見えている部分はわずか7分の1程度であって、見えてない部分がほとんどなのです。潮はその見えない部分にはたらきかけて、氷を南へ南へと運んでいくのです。潮の流れは決して変わることはありません。ですからその強大な氷は必ず同じ場所へとたどり着くのです。

評価の世界を超えて

 思えば、この流氷こそ、私そのものではないかと感じました。

 私たちは日々、家族や友人など、たくさんの方との関わりの中で、言葉を交わし、悩みや慶びを共有して生活をしています。

 しかし、私たちは、どれほど胸の内のすべてを相手にさらけ出して生活しているでしょうか。実は皆、誰にも知られようのない、悲しみや苦しみ、そして弱さをたくさん抱えて生きています。つまり、外からは見ることのできないものをたくさん抱えた流氷そのものだと思います。

 阿弥陀さまは、そのような、外からは決して見ることのできない悲しみも苦しみも、すべて知っていてくださいます。すべて見抜いてくださったうえで、「あなたを必ずお浄土へと往(ゆ)き生(う)まれさせる」と、私のすべてをまる抱えしてくださっているのです。

 『歎異抄』には、
  弥陀の本願には、老少(ろうしょう)・善悪のひとをえらばれず
     (註釈版聖典831ページ)

とありますように、阿弥陀さまの本願の大悲は、一人一人の「いのち」を、かけがえのない大切なものと認め、万人を分けへだてなくお救いくださいます。言い換えれば、若い時の私も、老いた時の私も、善い心を起こして善を行う私も、悪心を起こして振る舞う私も、どのような私であっても、「老少・善悪」という善悪をもって人を批判する評価の世界を超えて「いのち」そのものを見すえてくださっているのです。

 私たちの人生は、自分の人生でありながら、決して思うようにはなりません。何もかもが思うように進む、順風という追い風が吹いている時もあれば、逆風といったつらい出来事に出くわすこともあります。縁(えん)に触れれば何をしでかすかわからない弱く悲しい存在であるからこそ、阿弥陀さまは、その人生の善(よ)し悪(あ)しにかかわらず、「あなたがどのような人生になろうとも、必ず浄土へ生まれさせる」と喚び続けてくださっているのです。

 流氷の姿に、私も人生の善悪という荒波に流されることなく、善にほこらず、悪にひがまず、大いなるはたらきの中に生かされてあることを思うのでした。

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