無限の光

本願寺新報 2014(平成26)年4月10日号掲載
浅野 執持(あさの しゅうじ)(広島仏教学院講師)

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<h4 class="ttlS">南無阿弥陀仏とは?</h4>
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<h4></h4><div><img src="../../source/img/mioshie/houwa_140410.jpg" width="200" alt="" /><p>カット 林 義明</p></div>
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<p>浄土真宗のご門徒でなくとも南無阿弥陀仏を知らない人はいないでしょう。でも、それがどんな意味かと問われると答えるのは難しいものです。</p><p>もともと、ナモアミダブツはインドから中国を経て日本に伝わった言葉です。</p>
<p>インドでは、「ナマステー」と挨拶します。この「ナマス」と「ナモ」とは同じ語源で、そこには「尊敬する」「尊ぶ」という意味があります。「テー」は「あなた」、ナマステーは、「私はあなたを尊びます」という意味です。</p>
<p>同じようにナモアミダブツは、「私はアミダという仏さまを尊びます(アミダ仏に帰依します)」という意味なのです。</p>
<p>さて、アミダとは仏さまの名ですが、名はそのまま、仏さまのはたらき、力の大きさをあらわします。</p>
<p>アミダという言葉は、「ア・ミダ」と分けることができます。アは否定の言葉「~でない」という意味、英語のアンやノンにあたります。</p>
<p>ミダの語源は「ミター」、これが西洋ではメーターとなったようです。電気やスピードのメーター、長さの単位のメーター。「メーター」は「はかり」です。ア・ミダとは「はかることができない」という意味で、中国では「無量」と漢字があてられました。</p>
<p>では、何がはかれないのでしょうか。中国に伝わる途中、阿弥陀に続く二つの言葉が省略されました。その言葉とは「光」そして「いのち(時間、寿命)」です。はかりしれない光、はかりしれないいのち。阿弥陀仏とは、無限の光、いのちのはたらきを備えた仏さまなのです。</p>
<p>南無阿弥陀仏とは、「私は、はかりしれない光といのちの仏さまを尊びます」という意味となります。</p>
</div><div class="inner"><h4 class="ttlS"> 宗祖が示された他力 </h4><p>浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、この言葉の意味を大きく転換されます。 私がナモする、私が尊ぶのではなく、「仏さまが私を・・・」というふうに、南無も含めすべて仏さまのはたらきとされたのです。これを他力といいます。私が無限の仏さまを尊ぶのではなく、はかりしれない光といのちの仏さまが、今、私を抱きとってくださる。仏さまが私のいのちに、いつでも、どこでもはたらいてくださるとよろこばれました。</p>
<p>南無阿弥陀仏は、無限です。いつかは死んでいかなければならない、常に変わっていかなければならない、有限、無常の私だからこそ、はかりしれない、無限のはたらきの仏さまでなければならない。念仏は、無限の仏さまと有限の私とのであいの言葉なのです。</p>
</div><div class="inner"><h4 class="ttlS"> 地球がリンゴ引っぱる </h4><p>以前、若い方からの質問にインターネット上で答える機会がありました。寄せられた質問は、「信仰とはなんでしょうか。仰ぐのは仏像? 経典? 自分?」「念仏とは具体的になんですか」というものでした。</p>
<p>私は次のように答えさせていただきました。</p>
<p>「ニュートンは、万有引力を発見しました。リンゴは木から地面に落ちるように見えます。それを地面、つまり地球がリンゴを引っ張っているのだと彼は見たのです。</p>
<p>誤解を恐れず言いますと、私が仰ぐのは、仏像でも経典でも自分でもなく、そこにあらわれた『はたらき』です。私を真理へと引っ張る、導くはたらきがある。そのことをお姿であらわされたのが仏像であり、言葉であらわされたのが経典、そしてそのすべては私に今はたらいている。私はそのはたらきを『南無阿弥陀仏』とお呼びし、人生をかけて聞き、味わい、礼拝させていただいています」</p>
<p>親鸞聖人は、今日の私を底から支えてくださる「力」、真実に導き続ける「はたらき」を南無阿弥陀仏と教えてくださいます。浄土真宗のみ教えは、遠い先の話でも、日常とかけ離れたものでもないのです。私が今、ここで、無限の光に包まれている。そのことを日々の生活の中で、よろこびや悲しみを通して共に聞かせていただきましょう。</p>
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