お葬式は迷惑?

本願寺新報 2014(平成26)年4月20日号掲載
深水 顕真(ふかみず けんしん)(備後教区三次組副組長)

シンポジウムでの発言

カット 林 義明

「葬儀の意義とは何なのか?」

私の所属している備後(びんご)教区三次(みよし)組では、この問いかけをもとに3年間にわたって、僧侶門徒が一体となって研修を重ねてきました。三次組は広島県の中山間地域に位置していますが、近年の過疎化や高齢化に伴って地域での葬儀が大きく変化してきています。

これまで葬儀は、講中(こうちゅう)と呼ばれる十数軒単位の近隣組織が中心となって、互助的に運営されていました。男性は葬儀の受付や会場設営、女性は食事の世話など、自らの仕事を2日間は休んで葬儀のお手伝いをしていました。

しかし、三次市の中心部に葬儀会館が相次いで建設されると、地域で支える葬儀の形は次第に希薄になり、家族の意向を中心に葬儀業者がその運営を担うようになりました。その結果、「家族葬」をはじめ、地域のつながりから離れた葬儀の形が増えつつあります。

一連の研修の中で三次組が主催した葬儀に関してのシンポジウムで、あるお寺の総代さんが次のような発言をされました。

一人暮らしの近所の高齢者が入院し、その後、亡くなられた。しかし、地域の人には知らされず、「家族葬」で葬儀はすでにすまされたという。地域活動でお世話になっていたこともあり、数人でお参りに駆け付けた。すると、遠方に住んでいるその家族が「地域の皆さまにご迷惑をおかけしないため、皆さまにお知らせせずに、家族葬で営みました」という。はたして「迷惑をかける」とは何なのか、という発言です。

この言葉は「葬儀の意義とは何なのか?」を問う私たちの研修の大きなポイントになったと思っています。確かに近年の葬儀は経済的、社会的負担が大きくなる場合があり、その反動として「家族葬」や「直葬」と呼ばれる葬儀が出現する一因となっています。

シンポジウムでは、先ほどの発言を受けてある出席者から「私たちは、生きている限りは他人にいろいろな迷惑をかけ、支えられながら生きている。葬儀はこれらへの感謝の場でもあるのに、いまさら『葬儀で迷惑をかけない』というのは、逆に迷惑だ」という発言がありました。

私が転じられる世界

親鸞聖人はご自身のことを「罪悪深重(ざいあくじんじゅう)の凡夫(ぼんぶ)」といわれました。それはすなわち私自身の姿であり、そのままが阿弥陀さまの救いの目当てでもあります。

 罪障功徳(ざいしょうくどく)の体となる
  こほりとみづのごとくにて
  こほりおほきにみづおほし
  さはりおほきに徳おほし
  (註釈版聖典585ページ)

阿弥陀さまの救いとは、私たち人間が抱えている罪業を消し去るのではなく、そのまま氷が水に変わるように、罪障を功徳に転じるはたらきであるとおっしゃいます。

むろん私たちは、その深く重い罪業を自らの力で消し去ることなどできません。しかし、それほど大きな功徳をいただきながら歩むのならば、人生の見方や味わいも自(おの)ずから転じられていくのではないでしょうか。

確かに葬儀を行うことは、家族や地域・近隣に「迷惑」をかけることかもしれません。しかし、その「迷惑」は、人としてこれまで生きてきた総決算の場であるともいえるでしょう。そして葬儀に集まる参列者や手伝いの人、家族、そうした縁ある人々に私たちは支えられて生きてきました。葬儀という儀式を通して私たちは、「迷惑」ともいわれる人と人とのつながりを、支え合い助け合うことによって「絆(きずな)」に転じてきたのではないでしょうか。

もちろん故人や家庭の状況、地域での風習など、葬儀の背景は多様であり、その形を一様に押しつけることはできません。ただ、人間としての生きざまの総決算である葬儀を通して、迷惑をかけながらも多くのものに支えられてきたこれまでを振り返っていく。さらにその儀式を通して、阿弥陀仏の願いと功徳の中で生かされてきたことをあらためて見出しよろこぶ、そんな葬儀をこれからもおつとめしたいと思っています。

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