〝おらは果報者〟

本願寺新報 2014(平成26)年7月 1日号掲載
段証 武邦(だんしょう たけくに)(布教使)

ご縁の不思議さ思う

カット 林 義明

6月5、6日、ご門徒の皆さんと一緒に「法統継承」のご縁にあおうと、富山から京都のご本山に参拝しました。

5日には、第24代即如ご門主が退任される「御消息発布式」にお参りしましたが、私はただただ寂寥(せきりょう)の思いばかりで、最後に唱和した正信偈は今も心に響いています。

しかし、一夜明けた翌6日の「法統継承式」では、若き第25代専如ご門主と前門さまのおそろいのお姿を拝し、これからはお二方ともどものご教導を仰ぎながらお念仏の日暮らしができるのだと、わが身の幸せを喜ぶ尊いご勝縁となりました。

そもそも今回の参拝は、ご門徒のお一人が「私は前回の法統継承式(1977年)にお参りしたよ」と、37年前の思い出を話されたのがきっかけでした。そこで団体参拝を実施しようと企画したのですが、その方は都合が悪くなって行けなくなるなど、実施が危ぶまれる時もありました。しかし最後は「私をご本山に連れて行ってほしい!」というお方のひと押しで実現できたのでした。

多くの皆さまのおかげにより参拝できましたことに、ご仏縁の不思議さと有り難さをあらためて感じたことでした。

心の田を耕す

ところで、私は昨年からお寺の近くに畑をお借りして耕しています。大根の種をまいたところ、おかげさまで冬には立派な大根が収穫できました。

しかし、大根が立派に育つまでには、畑を貸してくださった方をはじめ、種のまき方を教えてくださったご門徒、肥料をくださった農家の方、草取りを手伝ってくださったご近所の方など、多くのご縁やおはたらきがありました。それによってはじめて成就したことだと知らされました。

仏教では「心の田を耕す」と申します。お釈迦さまが托鉢(たくはつ)をされていた時のことです。ある人が「あなたも私のように田を耕しなさい」とお釈迦さまを非難しました。すると、お釈迦さまは「私も田を耕している」とお答えになりました。

つまり、さとりに至る真実の法を人々に説くことこそが「田を耕す」ことであり、そこで収穫されるのは「さとり」の境地なのです。お釈迦さまの「田を耕す」というのは、すなわち人々の「心の田を耕す」ということだったのでしょう。

私がお育てをいただいたご門徒のおばあちゃんで、一昨年に九十代半ばでご往生された方がいらっしゃいました。

おばあちゃんは、とても口数の少ない方でしたが、ある日、毎月のお参りに伺った時、「若はん、私は人間に生まれたことを喜んでおります」と1回だけ言われたことが印象に残っています。そして亡くなる数日前には、息子さんに「おらみたいな果報者はおらん」と言い残されていたそうです。

おばあちゃんは若い時から、おしゅうとめさんと一緒に、いつもお寺で聴聞されていたそうです。私が布教使になって法話をするようになってからも、いつも一番前に座ってお話を聞いておられました。

蓮如上人は「ただ仏法は聴聞にきはまる」(註釈版聖典・1292ページ)とおっしゃいました。

おばあちゃんは若い時から聴聞を重ね、阿弥陀さまのみ教えによって、心の田が耕されたのでしょう。そして、「人間に生まれてよかった!」「お聴聞ができてありがたい」「お念仏の日々を送る私は、本当に果報者!」と、ご仏縁を心から喜ぶ身となられたのでしょう。

ご本山で「法統継承式」が営まれましたことは、まさにお念仏のみ教えが次代に確かに受け継がれていくことにほかなりません。

私も、おばあちゃんからいただいたお育てを忘れることなく、「布教を志すものこそ、まず聞法に励まねば」という恩師の言葉を肝に銘じつつ、お念仏の日暮らしを喜ばせていただき、み教えを次代へ伝えてまいりたいと思います。

ホーム教えみんなの法話〝おらは果報者〟

ページの先頭へ戻る