まことに包まれて

本願寺新報 2014(平成26)年7月20日号掲載
髙田 未明(たかだ みめい)(中央仏教学院講師)

隠した本音が背中に

カット 林 義明

「まんまんまん、あっ」

2歳の子がお仏壇の前でお念仏を称えます。

一方で、ご法事のとき、合掌しつつもなかなかお念仏が出ない人もいらっしゃいます。

いま、私たちがお念仏を称える身としていただいたのは、実はとても大きな出来事です。

それは、親鸞聖人が「誠(まこと)なるかな、摂取不捨(せっしゅふしゃ)の真言(しんごん)」(註釈版聖典132ページ)、「念仏のみぞまことにておはします」(同854ページ)とお示しのように、「真実の言葉」「まこと」がわが身に至りとどくということだからです。

「真実」「まこと」は、いつ、いかなるときも真実でなければ真実とはいえません。いまの私の目に真実と映った事柄でも、時を経て真実でなくなってしまうものは「虚仮(こけ)」「いつわり」です。

父親のNさんは、高校生の息子さんとの距離感について難しさを感じています。今年になって意見の衝突が多くなってきました。そしてある日、口論はつかみ合いに発展し、はたして体力で勝る息子さんに圧倒されました。

馬乗りになった息子さんが、しかし泣きじゃくりながら、「結局、父さんはいつもカネと世間体だけじゃないか!」と訴えたのでした。

Nさんには大変堪(こた)えました。この日に至るまで、父子の意見が対立したときには、「家庭のためだ」「おまえのためだ」と息子さんに言い聞かせてきました。Nさんの努力のおかげで、一家が豊かな生活を送っているのは一面で事実です。

ですが、同じ家に暮らす息子さんにとっては、父親の面と向かって諭す時間より、背中を見ている時間の方がはるかに長かったのです。

詳しい事情は知り得ませんが、先の息子さんのセリフは私にも迫ってきます。私たちはひょっとして、隠しているつもりの本音を、背中から後ろに漏らしつつ暮らしているのかもしれません。前に向かって空虚な正論をかざしながら・・・。

薬をのめばなおる?

先ほどの「念仏のみぞまこと」の言葉の直前には「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき」(同853ページ)とありました。

しかし、まことなき虚仮の私が、虚仮(こけ)のまま放っておかれるなら、真実がはたらいていないことになります。虚仮を真実ならしめるものこそ真実です。まことが私に来たって私の虚妄(こもう)が破られる、それが南無阿弥陀仏という名号(みょうごう)のまことです。真実はお名号となり届いてくださいました。

南無阿弥陀仏の名号はわずか六文字ですが、「この六字の名号のうちには無上甚深(じんじん)の功徳利益(くどくりやく)の広大なること、さらにそのきはまりなきものなり」(同・1200ページ)と蓮如上人は「御文章」でおっしゃっています。仏さまのまことのすべてが込められているのです。

絶大な効能をもつ薬も、一口で飲める錠剤としてつくられるように、お名号はほかの行(ぎょう)に勝(すぐ)れていて、なおたもちやすく称えやすく仕上げられています。

妙好人(みょうこうにん)の浅原才市同行(あさはらさいちどうぎょう)は、

「さいちが病気はなむあみだぶをのみこめばなおるかいやそんならどうすればなおるかへさいちが病気はなむあみだぶつさまにのみこまれるでなおるであります」

と詠(よ)んでおられます。

その称えやすさから、お名号は一粒の丸薬を飲むかのように思いましたが、実は広大なまことに私のほうが丸のみされている事態だったのです。

自分で称えているつもりが、称えるほどに、まことに包まれていたことが知られて、いっそうありがたくうれしいのです。

また蓮如上人は「衆生(しゅじょう)をしつらひたまふ。『しつらふ』といふは、衆生のこころをそのままおきて、よきこころを御(おん)くはへ候ひて、よくめされ候ふ」(同・1252ページ)とお述べです。

阿弥陀さまは私たちのあさましい心をそのままに、真実の心をお与えくださるのです。だからこそ、まことに成り変わるべく頑張らなくても、いいえ、頑張れずにいるこの虚仮の私の安心となるのです。

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