「開講偈」のこころ

本願寺新報 2014(平成26)年9月10日号掲載
梯 信暁(かけはし のぶあき)(大阪大谷大学教授)

命がけで仏法を

カット 林 義明

「無上甚深微妙(むじょうじんじんみみょう)の法(ほう)は、百千万劫(ひゃくせんまんごう)にも遇(あ)い値(お)うこと難(かた)し。我今(われいま)見聞(けんもん)し受持(じゅじ)することを得(え)たり。願(ねが)わくは如来(にょらい)の真実義(しんじつぎ)を解(げ)したてまつらん」

毎週火曜日、私は京都の中央仏教学院に出講しています。学院の教室では毎朝第1講時の開始前に、講師・学生全員が起立合掌してこの言葉を唱和します。「開講偈(かいこうのげ)」と呼ばれています。遇い難き仏法に出遇えたことをよろこび、命がけで仏法を学ぶ決意を表明する言葉です。布袍・輪袈裟(ふほう・わげさ)に身を包み、「開講偈」を唱える学生たちの姿に初めて接したとき、私は背中を打たれたような衝撃を感じました。

多くは大学を卒業した後、自坊の住職になるために入学された方々ですが、中には定年退職後の人生の依りどころを求めて来られた方、ご住職を亡くされ法灯(ほうとう)を守るために来られた坊守さまや中学を卒業したばかりの若い寺院後継者、さまざまな事情を抱え仏法に救いを求めに来られた方もいらっしゃいます。命がけで仏法を学ぶ人たちに、私は命をかけて講義ができているだろうかと、ふと思うことがあります。

源信僧都(げんしんそうず)の『往生要集』に、逃げ遅れたキツネの話が紹介されています。人道無常(にんどうむじょう)の相を説く一段に、死苦の恐ろしさを知らせるために提示された譬え話です。源信僧都はその文を天台大師の『摩訶止観(まかしかん)』から引用されていますが、キツネの譬喩は、もとは『大智度論(だいちどろん)』に説かれたものです。 物語風にご紹介しましょう。

まだまだ大丈夫

森に一匹のキツネがいました。ライオンやヒョウの食べ残しをもらって、何とか命をつないでいました。しかし、その日は獲物がありませんでした。おなかがすいてたまらず、真夜中に城壁を越えて町に入り、長者の家に忍び込みました。台所をあさりましたが、肉を見つけられず、とうとう力尽きて戸棚のかげで眠ってしまいました。

朝になって気付いた時には、たくさんの人間に取り囲まれていました。逃げ切れないと判断し、そのまま死んだふりをして様子を見ることにしました。

ある男が、「おれはこいつの耳をもらおう」と言って切り取りました。キツネは思いました。

「耳は痛いけれど、身体(からだ)はまだ大丈夫だ。もう少しじっとしていよう」

次に別の男が、「おれは尾っぽをもらうぞ」と言って持ち去りました。

「尾っぽは痛いけれど、これくらいなら我慢できる」

キツネの心にはまだ余裕がありました。

「おれは牙(きば)をいただこう」という声を聞き、キツネは考えました。

「どんどん持って行きやがる。もし首を取られたらおしまいだ」??そう思った瞬間、キツネは恐怖に襲われて跳び上がり、すべての知恵を傾けて最短の逃げ道を求め、一目散に走って難をのがれました。

手遅れにならぬよう

キツネは、死に直面してはじめて「命がけ」の姿勢をとることができました。もう少し早く行動を起こしていれば傷つかずにすんだのに・・・・・・。

私はどうでしょう。「ご催促」はすでに何度かあったような気がします。でもまだ大丈夫と高をくくっています。

源信僧都は次のようにもおっしゃっています。

「無限の生死(しょうじ)の中で、人間に生まれることは極めて難しい。たとえ人間に生まれても、仏の教えに出遇(あ)うことは難しく、たとえ仏の教えに出遇えても、信心をいただくのは希有(けう)のことである。ところが今、われらは幸いにも仏法を聞くためのすべての条件に恵まれた。娑婆(しゃば)に訣別(けつべつ)し、浄土に往生できる機会は、今この時をおいてほかにない。なのにいつになっても欲望はなくならない。臨終の時、猛炎の中に堕(お)ちながら助けを求めても、もはやどうにもならない。どうか一刻もはやく、さとりへの道を歩み始めていただきたい。宝の山に入りながら、手ぶらで帰ってくるような、愚かな生き方をしてはならない」

(一部要約)

手遅れにならないうちに、居眠りのような人生をそろそろ何とかしなければ、と思っているところです。

ホーム教えみんなの法話「開講偈」のこころ

ページの先頭へ戻る