私一人のために

本願寺新報 2014(平成26)年11月 1日号掲載
筑波 敬道(つくば たかみち)(布教使)

姪のケーキを作る

カット 林 義明

昨年11月、妹の長女が3歳の誕生日を迎えるにあたり、家族全員でお祝いすることになりました。そこで、母が私の連れ合いに、誕生日ケーキを作るように頼みました。

なぜ、妹の長女の誕生日ケーキを私の連れ合いが作ることになるのかといいますと、私たちの娘が小麦アレルギーを持っていたからです。小麦粉が少量でも体内に入ってしまうと体中にかゆみが走り、顔を含めた全身がはれ上がるような状況でした。

店頭に並んでいるケーキは、基本的に小麦粉が使われています。それを買ってきたのでは、一人ケーキを食べることができない子が出てきます。それが、私たちの娘だったのです。

最近は小麦アレルギーで悩んでいる方が増えてきたようで、スーパーなどでも小麦粉に代わる米粉を置いてくださる所が増えてきました。そこで母は私たちの娘のことを一番理解している連れ合いに、アレルギーの出ない食材を使った、娘も食べることのできるケーキを作るように頼んだのです。

早速、連れ合いはスーパーに行き、娘に合わせ米粉を含めたアレルギーの出ない食材を探し、子どもたちが喜ぶようにと、果物などを買ってきてケーキを作りました。

条件などつけない

その晩、子どもたちが大喜びで、おいしそうにケーキを仲良く食べている姿を見た時、私も心からうれしくなりました。

この日の誕生日会では、たとえ主役であっても、妹の長女の好みだけに合わせてしまったのでは、娘はケーキを食べることができず、楽しい会にはならなかったでしょう。

どうすればみんながケーキを食べて、楽しい雰囲気のまま会を終えることができるのか?それは、アレルギーのある娘に合わせることでした。

相手に合わせる場合は、合わせる側が一方的に合わせるのです。娘に「早くアレルギーを治しなさい」などというのではなく、相手の状況や素質、能力などを見きわめ、一切条件を付けることはありません。条件を付けたところで、その条件を満たすことができないことを知っているものが、わざわざ条件を突き付けることはありません。すべて合わせる側の仕事です。

世間一般の考え方では、高額で希少価値があり、少人数、一握りの人だけ食べることのできるものが素晴らしいもので、一般大衆、多人数が食べることができるものは評価されにくいものでしょう。しかし、本当にそうでしょうか?違う考え方もあるはずです。

今回の誕生日会でいえば、主役しか食べられないケーキの方がつまらないもので、家族がみんなで、楽しく食べられるものの方が素晴らしいものでした。

信じさせ称えさせ

阿弥陀さまが法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)という修行者であられた時、善人も悪人も、賢者も愚者も、出家も在家も、持戒(じかい)の者も破戒(はかい)の者も、富める者も貧しき者も、すべてを分けへだてなく救い、浄土に迎え取ろうと願いを立てられました。自力の修行は、必ず落ちこぼれが出てくるような難行道(なんぎょうどう)であるから選び捨て、一人も漏(も)れることなく救い得る称名一行(しょうみょういちぎょう)を往生の行(ぎょう)として選び取られました。そして「どうかお願いだから、念仏して浄土に生まれてきてほしい」と、救いだけを告げ続けてくださっていました。

世俗のこと、また自身の愛欲と憎悪に振り回されながら、他を傷つけ、自らも傷つきながら生き、さとりを開く手がかりさえもない私のことを救おうと、五劫(ごこう)もの間、思惟(しゆい)され、今まで見捨てず抱え続けてきてくださっていました。

何か一つでも条件がつけば漏れてくる者、落ちこぼれてくる者とは、まぎれもなくこの私だったのです。しかし、この私が漏れてしまっては、命あるすべての者ということにはなりません。だからこそ、この私に条件は一切つけず、この私に合わせてくださったのです。

信じさせ、称(とな)えさせ、生まれさせる。この私のためにと仕上がってくださった方のお名前を阿弥陀さまというのです。

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