仏の一人子として

本願寺新報 2014(平成26)年11月10日号掲載
平野 正信(ひらの しょうしん)(布教使)

初参式は誰のため

カット 林 義明

先日、生後4カ月になった息子の初参式(しょさんしき)のため、お世話になっているお寺に参りました。

初参式は、新たな命の誕生をよろこび、初めて阿弥陀さまにご挨拶をさせていただく大切な儀式です。私たち夫婦と、それぞれの両親も一緒に、家族総出で息子と阿弥陀さまのご縁を喜びました。

しかし、考えてみると、生後4カ月の息子は、おつとめができるわけでもありませんし、ご法話がわかるわけでもありません。阿弥陀さまという仏さまのこともよくわからないでしょう。わけがわからないまま連れてこられて、周りの大人が騒がしくしているなあ、くらいにしか思っていないかもしれません。

そんな息子にとって、この初参式は「お寺へのお参り」であったり「聞法(もんぼう)」であると言えるのだろうか?そんな疑問が後になってふとわいてきたのです。

そう思った時、初参式の時のご住職のご法話を思い出しました。

「初参式は、赤ちゃんが初めてお参りに行くことを祝う儀式ですが、その赤ちゃんのお母さんも、お父さんも、その子が生まれた時に親として生まれました。ですから、この子が4カ月生きたなら、この子の親も生後4カ月の親なのです」

確かに、私たちはこの子が生まれた時に、初めてこの子のお母さん・お父さんとしてスタートしたのです。生後4カ月の子の親である私たちは、生後4カ月のお母さん・お父さんというわけです。

「この初参式は、息子のための儀式だ」と思っていましたが、実は、親として生まれた私たちにとっても〝初参式〟だったのだなと知らされたのでした。

私のためのご縁

初参式は、息子を縁としておつとめする家族みんなのための初参式でした。私にとっては、息子が私に結んでくれた、お参りと聞法のご縁だったのです。

初参式に限らず、お葬式や法事なども、すでにご往生されたその人自身がお参りしたり、聞法したりしているわけではありません。

お参りし聞法しているのは、その人に縁のあった人たちです。つまり、お参りや聞法は「誰かのために」のご縁ではなく、私のためのご縁なのです。

親鸞聖人は常々、「弥陀(みだ)の五劫思惟(ごこうしゆい)の願(がん)をよくよく案(あん)ずれば、ひとへに親鸞一人(いちにん)がためなりけり」(註釈版聖典853ページ)とおっしゃられていたといいます。

「阿弥陀さまが長い長い間、思いをめぐらし、さとりの世界へ救いたいと願ってくださったその願いを、よくよく考えてみると、それは、ただこの親鸞、一人を救いたいがためであった」ということです。

阿弥陀さまの願いはすべての衆生(生きとし生けるもの)を救おうと願われた願いですが、それを誰かのための願いであるように聞いてしまうと、せっかく浄土真宗という素晴らしいみ教えに出あいながらも、私にとってのみ教えから離れて、何か遠くのものになってしまうということでしょう。

阿弥陀さまは、いつでもこの私を全力で救おうとはたらいてくださっています。

阿弥陀さまの救いはすべての衆生に向かっていると聞くだけではなく、この私こそ目当てとされた救いであると聞いていくところに、浄土真宗のみ教えは私が救われていく仏道となるのです。仏法は、私でない誰かではなく、今ここにいるこの私が聞いていく教えなのです。

私たちは親であったり子であったり、あるいは祖父母として、それぞれ違った立場に立って、それぞれの人生を生きています。しかし、仏さまは人間の立場とは関係なく、一人一人を救いたい目当てとして、一番大切な命として、全力で救おうと見てくださっています。仏さまの前では、私たちは等しく仏の一人子なのです。

初参式は息子一人のための式ではなく、私たちみんなが新しい関係性の中で、阿弥陀さまにご挨拶をさせていただき、それぞれが仏の一人子(ひとりご)として仏法を聞かせていただくご縁でありました。

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