私とは?

本願寺新報 2014(平成26)年12月 1日号掲載
藤島 秀恵(ふじしま しゅうえ)(布教使)

ロボットに押し付け

カット 林 義明

私が住む富山市にも冬がやってきました。もうしばらくすると初雪が降ることでしょう。そんな中、私が園長を務める幼稚園の子どもたちが、頬を真っ赤にしながらも元気いっぱい走り回っています。

「園長先生!これ見て!」と、落ち葉や木の枝を持って来たり、私の手を引き、土や泥、砂、木の実など園庭に落ちているもので作ったケーキや山などの作品を見せてくれたりします。子どもたちを見ていると不思議と元気をもらえます。だから私は、子どもによい環境は何かをよく考えます。具体的には自然の中で遊ぶこと、大人から絵本の読み聞かせをしてもらうこと、わが園では特に、お寺の本堂で仏さまの前に座ることも大切だと考えています。

先日、とても面白い絵本を読みました。「ぼくのニセモノをつくるには」(ヨシタケ シンスケ著)の主人公は、よしだ けんた君、小学校3年生です。けんた君は宿題やお手伝いや部屋の掃除など、やりたくないことだらけでゲンナリしていました。ある日、けんた君は名案が浮かびました。ロボットを買って、やりたくないことを全部押し付けようと考えたのです。家への帰り道、買ったロボットにニセモノ作戦について説明しました。

するとロボットは「じゃああなたのこと詳しく教えてください!」といいました。

けんた君は名前などのプロフィールや家族構成、容姿や特徴、好き嫌い、できることできないこと、ロボットがしつこく聞くことに自分なりに考えて答えていきます。そのやりとりの中で少しずつ、内面的なところに内容が変わっていきます。

「ぼくのなかにはちいさいころのぼくもぜんぶはいっているんだとおもう」と。そして、両親の子どもであることは両親にも「それぞれおとうさんとおかあさんがいるからずっとたどっていくとすごいたくさんの人がぼくとかんけいあるみたい」と、いのちのルーツをたどったり、日によって「ぼくのきもちはコロコロかわるいろんなぼくになるけれどやっぱりぜんぶぼくはぼく」と心の移り変わりを見つめたりしながら、最後に「ぼくはひとりしかいないおばあちゃんがいってたけどにんげんはひとりひとりかたちのちがう木のようなものらしい・・・・・・木のおおきさとかどうでもよくてじぶんの木を気にいっているかどうかがいちばんだいじらしい」と気付きます。

けんた君がロボットに説明することで感じたことは、「うーん・・・ぼくってなんだろう・・・かんがえればかんがえるほどいろいろでてきちゃう。でもじぶんのことをかんがえるのってめんどくさいけどなんかちょっとたのしい気もする」ということでした。

煩悩具足の凡夫

私とは?知っているようで意外と知らないのが本当ではないでしょうか?例えば両親の両親、そのまた両親・・・と代をさかのぼっていくと、私の中に多くの方の命が溶け込んでいることになります。また私の心や気持ち、気分は肉体的・精神的な状態によって一瞬一瞬変化し、コントロールしているようでできていません。自分らしさとは何か、そして何よりも私の命はかけがえのないもの、唯一無二の存在であることを真摯(しんし)に受け止めていないということです。

私はこの絵本を通して仏教に出遇(あ)うことができました。自分自身を見つめることのできない私の不完全さを、煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)と知らされ、その私を決してダメとせず、「ニセモノをつくる」ことはできない存在、自身の命の尊さを教えられました。

お寺の本堂で子どもたちに伝えたいことは、本堂の中心におられる阿弥陀さまのお心です。

「みんなが生まれてきたことって、すごいことなんだよ!失敗したり、つらいことがあったりしても、あなたは大丈夫、素晴らしいよ。あなたの命は一つしかないんだよ。だから大切にしてね。それとね、あなたと同じように、他の人や動物、植物もみんな大切な命なんだよ」

子どもたちの「なもあみだぶつ、なもあみだぶつ」の声が、わかったつもりの私に「あなたのことだよ」と、私にも教えてくださいます。

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