音声(おんじょう)の不思議

本願寺新報 2014(平成26)年12月20日号掲載
小野 真(おの まこと)(相愛大学准教授)

まさに無常

カット 林 義明

今夏、父がその一期(いちご)を終えました。長年、雅楽に親しんできた父は、8月上旬に久しぶりに舞楽を舞ったばかりでした。お盆の時も、住職として多くのご門徒と本堂でお話をさせていただいておりました。ところが、お盆明けに突然体調不良を訴え入院し、8月末に急逝しました。まさに無常を具現するような出来事でした。

通夜や葬儀の準備をしながら、まったく理解できないことの中で自分がいる、という、とても奇妙な気持ちでいました。父の死への悲しみも封印されたままでした。あまりにも突然すぎて、あっけなさすぎて、本来自然に湧き出るはずの感情すら、反応に困っている状態でした。

父や私が所属する雅楽会では、会員の通夜の席で、献楽するならわしになっています。演奏する曲は、父が一番得意としていた舞楽の曲をお願いしました。しかし、献楽の間近になって「これは失敗したかな」と思い始めました。その曲がきっかけになって感情があふれ出て、涙が止まらなくなって献楽後のご挨拶ができなくなったらどうしよう、と思ったのです。

そんな思いを巡らせているうちに、たくさんの方による演奏が始まりました。最初ははらはらしていたのですが、不思議なことに、雅楽の音の中から、笑顔で語り掛ける父の声が自然に聞こえたような気がしました。

「突然いなくなって、お前たちと一緒におれなくなったのは残念やけど、わしのことは悲しむ必要はないよ。お浄土に生まれさせてもろたから・・・。死んだ後も全然つらくないし、むしろ、この雅楽の音のように清らかでええところや・・・」

この声が聞こえてから、凍てついていた私の心は次第に解けほぐれて、涙が出るどころか、不思議な温かい安堵(あんど)感に包まれてきたのです。

心を込めて丁寧に

ご門徒には「亡くなったおばあちゃんは、お浄土にいっておられますよ」などと日頃言っておきながら、自分のことになると、有無を言わせない死の不気味な力を前に身をすくませ、それに巻き込まれた父のつらさはいかばりかと、父の行方を案じていたのです。

しかし、献楽の途中から「死を経た後も父は苦しんでいない。この雅楽の音の内から声が聞こえてきたのだから、父はこの音に包まれているのだろう。そして生きているときと変わらず雅楽を楽しんでいるのであろう」という確信が自然に生まれてきたのです。

そしてこのような素晴らしい音楽に包まれていた父の一生は、立派で幸せであったことであろうという思いもわいてきました。演奏が終わる頃には、ずっと暗雲の中にいた私の心にうっすらと光が差し込んできて、何かに塗り固められて停止していた思考が自然に融け出し、落ち着いてご挨拶ができたことでした。

葬儀が終わって数カ月経った今でも、寂しさはありますが、この時の温かい安堵感に支えられています。

僧侶になりたての頃、お通夜の席で自分の未熟な法話を披露して空回りしていることに気付き、ある先生にその悩みをお話しました。

その時、先生は「私自身も、今でもそう思っていますよ。だからね、そんな時は、亡くなった方はお浄土へいかれたのであって、苦しい思いは決してされていませんよ、と念じて、心を込めて丁寧に勤行をして儀礼を執行することが大切ですよ。その心は必ず伝わりますよ」と言われました。

今回の雅楽の演奏中に、雅楽会の会員さんがそう念じてくださったのかもしれません。あるいは、父も生前から死をそのように考えていて、雅楽の音が触媒となって、父の思いが私の心で開かれたのかもしれません。さらにいえば、阿弥陀さまが雅楽の音にのせて私に語りかけてくださったのかもしれません。

われわれの宗門では雅楽が儀礼に用いられて長い伝統がありますが、やはり雅楽は真宗の救いと深いかかわりがあるようです。勤行や雅楽を通じて救われ、支えられ、音声(おんじょう)の不思議にあらためて気付かされた経験でした。

ホーム教えみんなの法話音声(おんじょう)の不思議

ページの先頭へ戻る