ぬくもりのあるやさしさ

本願寺新報 2015(平成27)年1月20日号掲載
井上 善幸(いのうえ よしゆき)(龍谷大学准教授)

背中に違和感が・・・

カット 林 義明

昨年の3月、住職を継職しました。手続きを済ませた後は、本山で住職補任式を受け、自坊で継職法要を営むことになります。そのための準備や打ち合わせなどを進めていた5月末、胃から背中にかけて違和感を感じました。

最初のうちは気にしていませんでしたが、やがてそれは痛みとなり、日常生活にも支障を来(きた)すほどになってきました。病院で専門の医者に見てもらえばよいのですが、とりあえずインターネットで調べてみました。

私は性格的に、まずは最悪の場面を想定して、それから開き直るタイプです。痛みの原因についても、「たぶん何でもない、大丈夫だろう!」ではなく、「もしかしたら大変な病気の徴候では?」という気持ちで調べていました。すると、死亡率の高い病気と症状が当てはまるものがあったため、最悪の場面が私の頭に浮かんできました。

私は勝手に、自分が間もなく死ぬことを想定しはじめました。朝食を妻と二人の子どもと一緒に取りながら、「こんな朝もあと何日・・・。いや、入院したら、もう今が最後の団欒(だんらん)かも・・・」と、ひたすら悪夢のスパイラルです(ちなみにこれは、私の勘違いであることが判明します。医師の診断は〝ただの痛みですね〟)。

もし余命が少ないとすれば、これからの予定を整理しなければなりません。あれやこれやと調整し、あるものはキャンセルし・・・。せっかく継いだ住職が継職法要前に亡くなって・・・。いろいろなことに思いを巡らせましたが、一番気がかりなのは私がいなくなって困る人よりも、悲しむ人のことです。

銀(しろがね)も 金(くがね)も 玉(たま)も 何せむに

まされる宝 子に如(し)かめやも

万葉の歌人・山上憶良(やまのうえのおくら)は、どんな金銀財宝も子宝には及ばない、と詠(よ)みました。目の前で無邪気に朝ごはんを頬(ほお)ばる子どもたちは、たしかに私の宝です。けれども、それはやがて離ればなれになる宝です。まもなく別れを迎えるとしたら、私は、どんな宝を大切な人たちに遺(のこ)せるのでしょうか。また、私にとってほんとうの宝とは、何なのでしょうか。

お念仏の宝

ところで、妄想をふくらませるうちに、実際にそのような別れを経験した人、そして、悲しみを抱えながらも安らかに日々を送っておられる人たちが、私の身の周りに数多くいらっしゃることに、あらためて思いがいたりました。その人たちに遺された宝とは何でしょう。そう、それは「南無阿弥陀仏」のお念仏です。

蓮如上人は「当流(とうりゅう)の真実の宝といふは南無阿弥陀仏、これ一念の信心なり」(註釈版聖典・千309ページ)とお示しくださっています。

どんなに名残が惜しくても、この世の縁が尽きたとき、私の命は終わります。しかし、その命を無量のいのちとしてすくい取る世界が、私たちにはめぐまれています。「ナモアミダブツ」の声となって私にとどく阿弥陀さまの願いのはたらきは、死にゆく人も遺された人も、ともにあたたかく包み込んでくださいます。それは今を生きる力をはぐくむ宝であり、やがて生まれるさとりの世界へとつながる同じ一つの道となる宝です。

早合点であれこれと思いをめぐらせましたが、ほんとうは誰が先に最期を迎えるのか、いつそのときが来るのか、それは誰にもわかりません。だとすれば、今、阿弥陀さまの願い、決して壊れることのない宝に出遇(あ)うしかないのです。

つながりが強ければ強いほど、別れの悲しみやつらさ、寂しさは癒(い)えることはないでしょう。お念仏という宝は、悲嘆の解消剤ではありません。ただ、どんなときにあっても、やさしさのあるぬくもりを添えてくださるのが、お念仏という宝なのでしょう。

阿弥陀さまの願いの中に生かされる。それがそのままお念仏の宝を伝えることです。見渡せば、そんなぬくもりに出遇(あ)った人たちのお念仏の声に包まれておりました。

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