天国と浄土

本願寺新報 2015(平成27)年2月 1日号掲載
釋氏 真澄(きくち ますみ)(元カナダ開教区開教使)

気がつけばお念仏を

気がつけばお念仏を

カット 林 義明

「先生、結局お浄土も天国も同じところなんですよね?」

カナダで開教使をしていた頃、お寺で毎週催されていたシニアカラオケクラブに来られた日系2世の男性から、このように問われました。

お話をよく伺うと、その方のお家は仏教徒でご家族もお寺のメンバーでしたが、熱心なクリスチャンである奥さまの影響で結婚後キリスト教徒になられたそうです。しかし70歳を超えた最近、夢の中に亡くなったお父さんや弟さんが出てこられ、気がつけば明け方にお念仏を称えていることが多いとのことでした。

私はその問いに一瞬悩みました。なぜなら涙ぐんだその瞳(ひとみ)には、「お願いだから同じであると答えてほしい」という思いがにじんでいたのです。しかし私は、阿弥陀さまの極楽浄土とキリスト教の天国は、その性質も違うし、そこへ行く方法も違うということ、もっと言えば、阿弥陀さまと神さまは性質が全く違うことを思い切って伝えました。その違いを聴きにお寺にお参りくださいとお見送りしたのですが、やはり落胆されていました。

帰国後、そのことがいつまでも頭から離れなかったので、龍谷大学の大学院でご指導を受けていた先生に質問させていただいたところ、「このいのち終わったあと、すぐには会えなくても、いつかはお浄土で出会えます。阿弥陀さまが必ずすべての衆生(しゅじょう)を残らず浄土に生まれさすとお誓いなんですからね。それに浄土の時間は人間が感じる時間と違いますから、会えない時間もほんの一瞬ですよ」とお答えくださいました。

有り難いお言葉に胸がすく思いでしたが、同時にカナダでそのように答えられなかった後悔の念でいっぱいになりました。

すべて我が師

親鸞聖人はお手紙に「聖道門(しょうどうもん)というのは、すでに仏(ほとけ)になられた方が、わたしたちを導こうとして示された、仏心(ぶっしん)(禅)宗・真言宗・天台宗・華厳(けごん)宗・三論(さんろん)宗などの大乗の究極の教えです。・・・また、法相(ほっそう)宗や成実(じょうじつ)宗・倶舎(くしゃ)宗といった権教(ごんきょう)や、小乗(しょうじょう)などの教えも、すべて聖道門です。権教というのは、すでにさとりを開かれた仏や菩薩が、仮にさまざまなすがたを現(あらわ)してお導きになるので『権』というのです」(現代語版『親鸞聖人御消息』5ページ)とお示しです。

聖人は、師の法然聖人や自らを法難にあわせる原因ともなった天台・法相宗を含めた聖道門の僧侶の方々をも、自身を仏にならしめるためにはたらきかけてくださっている還相(げんそう)の菩薩として見ておられたのです。またその最後には、「釈尊の善知識(ぜんちしき)は百十人です。このことは『華厳経』に説かれています」と示され、善財童子(ぜんざいどうじ)が求道(ぐどう)の旅で出あったさまざまな職業や年齢の方を、すべてわが師と仰ぐ謙虚な姿を讃(たた)えておられます。

今も世界中で宗教の違いが原因になり、さまざまな憎しみ合いが起きています。私が受け持つ京都女子大学の仏教学の講義では、毎年1年生の最初の授業で「宗教についてどう思いますか?」というアンケートを書いてもらっていますが、「無い方が平和な世界になる」という答えが見受けられます。

世界を見渡した時、仏教の他宗の方々や、他の宗教を信仰している方々、そして特定の宗教を信仰していない方々と、多様な宗教観の中で私たちは生活をしています。

ご修行中の阿弥陀さまが二百十億もの仏国土をご覧になり、その長所や短所を学ばれたように、私たちもさまざまな仏教の宗派や他の宗教、そして感動をもたらしてくれる芸術や言葉などにも心を開いて、その素晴らしいところを謙虚に学び、あらゆるいのちからお念仏のみ教えを味わわせていただくという姿勢が大切だと思います。

阿弥陀さまの眼(まなざし)から見れば、この世に無駄ないのちはひとつもないのですから。

1歳になったばかりの私の息子にとっては、宗教や思想の違い、肩書や社会的地位などは関係なく、自分を見てにっこり笑いかけてくれる人に、ただただにっこりと心の底からほほ笑んでいるのです。その無垢な笑顔に、私の分別に満ちた心の濁りが照らし出される気がいたします。

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