願いを受けとめ味わう

本願寺新報 2015(平成27)年3月10日号掲載
竹田 嘉円(たけだ よしまる)(広島・明円寺住職)

自分の名前がイヤ

カット 林 義明

私の名前は、漢字で「嘉円」と書いて「よしまる」と読みます。でも私は中学生くらいまで、この名前が嫌いでした。それは幼稚園の時も、小学校に上がってからも、私の名前をまともに「よしまる」と読んでくれた人が誰もいなかったからです。

新学期が始まり、担任の先生が出席をとるため生徒の名前を名簿順に呼ぶときなどは、憂うつでたまりませんでした。どの先生も私の名前が読めないのです。すると先生が「この名前はどう読むのか」と言われます。私が「〝よしまる〟と読みます」と言うと、先生が「変わった名前だなぁ。おまえの家はお寺か、それで・・・」と言われるのです。すると、なぜだかクラスのみんながドッと笑うのです。

しかし、高校生や大学生になると、友だちが「おまえの名前はオリジナリティーがあっていい」って言ってくれるようになりました。私は単純なのか、人から「いい」って言われるとうれしくって、自分の名前も「まんざらでもないなぁ」と思うようになりました。それでも今も多少のコンプレックスはあります。今思えば、父に「何でこんな名前つけたん?」って聞いておけばよかったと思います。

しかし、その父も27年前にお浄土へ往生させていただき、今となっては聞きようがありませんが、おそらく父は、親鸞聖人がお書きになった『教行信証』にある「円融至徳(えんにゅうしとく)の嘉号(かごう)(あらゆる功徳(くどく)をそなえた名号(みょうごう))」(註釈版聖典131ページ)というお言葉から私の名前をつけたのではないかと思っています。

もしそうなら、好きになれなかった私の名前にも、私のことを思う父の願いが込められていたのではないか・・・。仏教を学ばせていただく中で、今ではこのように思うようにもなりました。

あらためて、私という存在と名前とは、別ものではなく一つなのだということを思います。だから、自分の名前を軽く扱われたり、馬鹿にされると傷ついたり、腹が立ったりするのです。たかが名前、されど名前です。

名号として届けられ

浄土真宗のご本尊である阿弥陀さまは、「名声十方(みょうしょうじっぽう)に超(こ)えん。究竟(くきょう)して聞(きこ)ゆるところなくは、誓(ちか)ひて正覚(しょうがく)をならじ(私の名号(みょうごう)を広くすべての世界に響かせよう。もし聞こえないところがあるなら誓って仏にはなるまい)」(同24ページ)と言われ、みずから名前を名告(なの)り、その存在を私たち一人ひとりに知らせ、私たち一人ひとりのところに届いていてくださっているのです。だから私たちは、阿弥陀さまの名前を称(とな)えながら、阿弥陀さまに出遇(であ)うことができるのです。

では、「阿弥陀」というお名前に込められた願い(はたらき)とは何なのでしょうか。

「阿弥陀」とは、インドの言葉「アミターバー、アミターユス」を音訳(おんやく)(発音を漢字に)したもので、「無量光(むりょうこう)、無量寿(むりょうじゅ)」と漢訳(かんやく)(言葉の意味を漢字に)されました。

光には、ものを明るく照らしはっきりさせるというはたらきと、ものをあたたかく包み育(はぐく)むというはたらきがあります。私たちは、この阿弥陀さまの無限なる光(無量光)のはたらきに遇(あ)うことによって、自分では見えなかった煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)という愚かな本当の自分の姿を知らせていただくと同時に、そんな私を放っておけないという阿弥陀さまのあたたかいおこころに包まれていることを知らせていただくのです。

また、阿弥陀さまは無限なるいのち(無量寿)をもつ仏さまですから、この阿弥陀さまの光のはたらきはいつまでもとどまることがないこと(無量光)も併(あわ)せて知らせていただきます。

私たちは、「阿弥陀」という名前に込められた願い(はたらき)をよく受けとめてお念仏を申させていただくこと。また、お念仏を申しながら「阿弥陀」という名前に込められた願い(はたらき)をよく味わわせていただくことが大切です。

このように日々お念仏を申して生きる中で、わが身の愚かさを厭(いと)い、阿弥陀さまのあたたかいお育ての中で、お浄土をめざして生きていく新たな自分になっていくのです。

一緒にお仏壇の前でお念仏申しながら味わわせていただけたらと思います。

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