お彼岸に寄せて

本願寺新報 2015(平成27)年3月20日号掲載
櫻井 法道(さくらい ほうどう)(北海道・新光保育園園長)

此岸から彼岸へ

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カット 林 義明

今年の冬は寒暖の差が激しく、例年にない厳しい冬となりました。しかし着実に雪も緩み、春の日ざしが一段と輝きを増し、いよいよお彼岸の季節を迎えました。

厳しい冬だからこそ、春の和やかな光に包まれる心地よさを、ありがたく感じることができるこの頃です。

旅の楽しみは帰る故郷(ふるさと)があるからこそ、安心して旅をすることができます。人生の旅もまた、帰る故郷がある人と「故郷」に気づかない人生では、今を生きる生き方に大きな違いがあります。「一期一会(いちごいちえ)」の時にも、心にゆとりを持って、日々の出来事を「しみじみ」と味わうことができるのではないでしょうか。

このお彼岸のご縁は、あらためて人生の旅の「故郷」を「浄土」として示されたことを再確認させていただく行事でもあります。

お彼岸は日本独自の仏教行事で、季節の変わり目の「春分」「秋分」に、西に沈む太陽の先に阿弥陀仏の浄土を想い、此岸(しがん)(この世)から彼岸(お浄土)へいたる「到彼岸(とうひがん)」の仏事として取り組まれてきたことでした。

昨今、浄土というと何か夢物語のような世界を思われがちですが、浄土とは阿弥陀仏が願いを持って建立された私たちのいのちの故郷です。

親鸞聖人は、私が浄土を願うのではなく、浄土から私が願われている存在であることをお示しくださいました。その浄土からのはたらきかけがお念仏となり、明日をも知らないこの私を照らし、はたらきかけてくださっているのです。

次の詩にそのことがよく表されています。

 闇の夜の

 月の光のありがたさは

 わかるけど

 太陽の光は

 大きすぎて

 わからない 

 

 雨の日の

 傘のありがたさは

 わかるけど

 屋根のご恩は

 大きすぎて

 わからない

生かされている私

阿弥陀さまの大悲というものは決して目に見えるものではありません。太陽の光もその存在があまりに大きすぎて、有り難さに気付きにくいものですが、闇夜の「月光」となって、その存在に気づかされます。阿弥陀さまの大悲もすべての場所に行き渡っており、それに目を向け「南無阿弥陀仏」とお称(たた)えすることで、人々を漏らすことなく苦しみの世界から西方浄土へと救いとってくださるのです。

また、傘の存在は雨道に傘をさしている時にはその有り難さはよくわかるのですが、家に入ってしまうと、大屋根の恩恵を忘れがちです。しかし、阿弥陀さまは私が忘れていても常に私たちを照らし護ってくださっているのです。

『歎異抄』第十四章に「一生(いっしょう)のあひだ申(もう)すところの念仏(ねんぶつ)は、みなことごとく如来大悲(にょらいだいひ)の恩(おん)を報(ほう)じ、徳(とく)を謝(しゃ)すとおもふべきなり」(註釈版聖典845ページ)とあります。

一生のあいだに称える念仏は、すべてみな、如来大悲のご恩への感謝の表れだと思うべきであるといわれます。

身に着(つ)けたもの、目に見える財産は、やがて時代とともに形がなくなってしまいます。しかし、私のいのちの存在は、父母を通して先祖から、網の目のようにつながっているのです。

毎日毎日、私たちは、さまざまなことに振り回されていますが、それをいちばん根っこのところで支え、私が私として、生きることを成り立たせてくれている、大きないのちのはたらきがあるのです。

大いなる阿弥陀さまの大悲の中に、私が生かされていることに目覚めたとき、初めて、報恩感謝の生活が開けてくるのではないでしょうか。

そのことに気づかされるときに、私たちは本当に大切な教えに遇(あ)うことができたといえるでしょう。ぜひ慌ただしい日々の中にあって、お彼岸を機会に仏事に参加し、自らのいのちの行く末について、しっかり向き合うことのできる人生の時を持ちたいものです。

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