私を思うお念仏

本願寺新報 2015(平成27)年4月 1日号掲載
鎌田 宗雲(かまだ そううん)(中央仏教学院講師)

今お念仏のおかげで

カット 林 義明

ときどき思うことがあります。親鸞さまの教えに出あわなかったらどんな人生だっただろうか、お念仏の教えを知らずに生きていたら、どんな生き方をしていただろうかと。

今から四十数年前の学生時代に聞いた、金子大栄(だいえい)先生の幸福三條(さんじょう)「一、人身(じんしん)を受けし有(あ)り難(がた)さ一、仏法に遇(あ)へる忝(かたじ)けなさ一、今日を生きる勿体(もったい)なさ・・・・・・この人はまことに幸福な人生を歩んでいる」との言葉が今も心に残っています。

私がおあずかりしているお寺は一村一カ寺で、何百年とご先祖から代々相続しているお念仏を、生きる糧(かて)としている人たちが住む田舎町にあります。

毎月の常例法座や各法座にお参りする人たちのにこやかな顔が私は大好きです。この笑顔はどこからきているのでしょうか。きっと、いつもアミダさまにいだかれて生きているしあわせが心身に染みているからでしょう。子どもの頃から日曜学校に通い、日常勤行(ごんぎょう)は自分でおつとめできる人たちばかりです。金子先生が晩年によく言われた幸福三條がそのままあてはまるような人たちです。

私はこんな人に囲まれてお参りしていて、梅原真隆和上(しんりゅうわじょう)の「生かされて生きるいのちのとうとさよ名もなき草にひかりこぼれる」の歌をいつも思いだして感謝しています。私のまわりには、つらいときも、うれしいときも、お念仏をしながら如来さまのご恩をいただいている妙好人(みょうこうにん)たちがいっぱいおられます。

いつもいだかれて

覚如(かくにょ)さまが「悲しきかなや、徳音(とくいん)は無常の風に隔(へだ)たるといへども、実語(じつご)を耳の底に貽(のこ)す」(註釈版聖典・172ページ)と申されています。

ナモアミダブツの喚(よ)び声が聞こえると、アミダさまのお慈悲が念仏者の心身に満ちて、お念仏が念仏者の生きる力となってくるということです。お念仏の日暮らしをしている私は、いつも・どこでもアミダさまと一緒に生きていると伝えてくださっているのです。覚如さまのおこころはここにあります。

どうして、そういえるかといえば、親鸞さまは「諸有(しょう)の群生海(ぐんじょうかい)を悲引(ひいん)したまへり。すでにして悲願(ひがん)います」(同400ページ)と明示されています。

この「すでにして」とは、私が気づく前から大悲のご本願が私のうえにはたらいてくださっているということです。私たちにはアミダさまの大悲のご本願がかけられてあった身なのです。それでは、その大悲のご本願のはたらきを、私たちはどこで感じうけとるのでしょうか。それはアミダさまがナモアミダブツとなってはたらいてくださっているのです。これをお念仏といいます。

親鸞さまはお念仏を智慧(ちえ)の念仏と領解(りょうげ)されます。アミダさまの智慧がナモアミダブツとなって、私たちにはたらいてくださるのです。そして、私は「信心の智慧」を賜(たまわ)るのです。かならず仏さまになってくれよと、よびづめによんでいてくださっているのがお念仏なのです。

多くの人はお念仏を「仏を念ずる」と受けとり、お願いの念仏と理解しています。この理解をひっくりかえしたのが親鸞さまです。親鸞さまは「念ずる仏まします」と領解されました。それは私が仏さまにお願いするよりも先に仏さまのほうから念じられていた私であったと、アミダさまのお慈悲を味わわれています。ですから、お念仏は名号(みょうごう)であり信心(しんじん)です。念仏は正念(しょうねん)だとお示しです。

「念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なり」(同146ページ)

そしてその正念は「『正念』の言(ごん)は、選択摂取(せんじゃくせっしゅ)の本願なり、また第一希有(けう)の行(ぎょう)なり、金剛不壊(こんごうふえ)の心(しん)なり」(同538ページ)と、お念仏は他力真実の信心であると伝えてくださいました。このことを木村無相(むそう)さんが「おねんぶつ」という詩でみごとにうたいあげています。

にょらいさんがわたしを

おもっておもって

おもっておもって

くださるのがおねんぶつ

にょらいさんのおもいが

わたしに

とおってとおって

とおってとおって

くだされたのがおねんぶつ

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