ことばはこころ

本願寺新報 2015(平成27)年5月 1日号掲載
池信 秀見(いけのぶ しゅうけん)(山口・極楽寺住職)

胸に手を当てて・・・

カット 林 義明

息子が小さな頃、「お父さん、〝お互いさま〟ってどういう意味?」と尋ねられ、ドキッとしたことがありました。確かに近頃は、責任を押し付け合う姿は目にしても「お互いさま」と責任を取り合うシーンは、テレビドラマでも見ることはありません。何より私自身が使っていなかったのではと反省し、意識して使うように心がけました。

そんな折、頼み事をされたので、ここぞとばかりに「お互いさまですから」と言うと、相手がホッとするのが伝わってきたのです。貸し借りではなく、温(ぬく)もりのある関係が生まれたようにも感じられ、これは大切な言葉だなと、あらためて気づかされました。こんなに大切な言葉を使っていないということは、その心を見失っているということなのでしょう。

考えてみれば、「縁の下の力持ち」という言葉も聞かなくなりました。見えないところで支えてくださる方への、敬いの心が見失われてきたということでしょうか。いや、そこまで深く物事を考えることのない、薄っぺらな生き方が広がっているのかもしれません。

「胸に手を当てて考える」という言葉も、久しく聞きませんね。自分を振り返り、どんな生き方をしているのかを見つめることは、人間が生きる上で大切なことであるはずなのに。ファッションやヘアスタイルといった外見には気を使っても、自分がどんな生き方をさらしているのかにまで思いが及ばないというのは、いかがなものでしょう。かくなる私も、米沢英雄先生の「自分だけが我慢していると思っていて、相手から我慢されているということがわからないのです」という言葉を聞いて、まず最初に誰かの顔を思い浮かべ、しばらくしてからようやく顔が赤らむ程度の者なのですが。

昔は良くて、今はダメだという話ではありません。ただ、昔は「私は大切なことを忘れがちな存在だ」という自覚があったからこそ、言葉にすることでその心を思い出す営みも、続けられていたのでしょう。

お念仏の歴史の中に

もう一つ言えば、ひと昔前までは牛や豚を「育てる」と言いました。ところが今やニュースでは、牛や豚を「生産する」と当たり前のように言い切っています。気がつけば「消費する」「投資する」など、私たちの生活を経済用語であらわす時代になりました。海の魚は「海産資源」、木は「森林資源」、景色は「観光資源」で、人は「人的資源」だそうです。

確かに経済は大切なことですが、それがすべてと偏ってしまうことで、役に立つか、お金になるかどうかが判断基準となりました。いのちを、自然の恵みを「いただく」という謙虚さは失われ、「資源」としか見ない傲慢(ごうまん)な考え方が広がっています。「いただきます」「ご馳走さま」が言えなくなるはずです。

言葉が失われるとは、心が失われるということです。「お念仏の声が聞こえなくなった」ことも同様です。お念仏を称え、お念仏によびかけられ、お念仏に育てられた私たちの先輩方の歩みが、そしてお念仏に込められた心が、見失われているということなのでしょう。

私が子どもの頃は、山を走り回って遊んでいました。しかし、今は大人でも入ることができません。なぜなら、山に入る人がいなくなったことで、道がなくなってしまったからです。道は、先に行く人が踏みしめる歩みによってできるのです。

私の前を先立ち、お念仏を称え、歩んでくださる方があった。そして、その人の前にも歩まれた人があり、その人の前にも、その人の前にも...とさかのぼれば、親鸞聖人はもちろんのこと、たくさんの人々が連なる、長い長いお念仏の歴史があったのです。その歩みが、今私のところにまで至り届き、大切な心を伝えている。これってすごくないですか。ならば、道を消すわけにはいかないでしょう。お念仏を称え、その心を伝えていく歴史の歩みに、私も踏み出していかねばと強く思っています。

でも、よくよく「胸に手を当てて考え」てみれば、私などお寺で育てられ住職になっていなかったら、大切な言葉を見失っていてもまったく気づかないタイプです。こんな私もこうして育てられていると思うと、ただお念仏のはたらきに頭が下がるほかありません。

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