お浄土があってよかったね

本願寺新報 2015(平成27)年5月10日号掲載
三上 章道(みかみ しょうどう)(本願寺新報前編集長)

今の人には通じない

カット 林 義明

『お浄土があってよかったね』

このタイトルは、茨城県にある精光会みやざきホスピタルという病院の宮崎幸枝副院長が、2008年に出版された本(樹心社刊)の書名です。昨年には続編の②も刊行されました。

読ませていただくと、まさに書名通りの浄土真宗のこころで病院が運営されていることを知ることができ、浄土真宗が味わえます。

実は、同書の出版を広告で知ったときに、私は義母が30年ほど前にこの言葉をもらしたことを思い出しました。妻(坊守)の実家である京都のお寺でテレビのドキュメンタリー番組を見ていました。ある有名な寺院へ信者さんが行き、住職と会話する場面でしたが、信者さんが「(交通事故で)死んだ息子はどこへ行った。今どうしているのか教えてください」と泣き叫んで問うのです。

住職は「お浄土」とは言わないものの、それなりに答えていましたが、納得できないのか、信者さんが泣き続けていました。

その番組が終わったときに、義母が「お浄土があってよかったね」ともらしたのです。

その時は、「そうやな」と感じただけでしたが、だんだんと「お浄土があってよかったね」と共感しあえることが、御同朋御同行(おんどうぼうおんどうぎょう)の内容であると思うようになりました。

しかし、このテレビ番組での信者さんの「どこへ行ったのか」との問いに、「お浄土」と答えても納得してもらえなかったのではないかと思います。

というのも、私はその後、滋賀県大津市のお寺へ入寺して住職になりましたが、従来からの門徒さんには通じた「お浄土」が、通じなくなっていました。ご門徒が亡くなり、遠隔地に住んでいる息子さんなどが来られて自身の親の葬儀を営み、お寺とのご縁ができた次の世代の門徒さんには、「お浄土」が通じないことが多いのです。

合掌ができる社会へ

とりわけ、死後は「天国」という言葉が昨今一般化してきたため「浄土」がなおさら見えなくなった、曖昧(あいまい)になったようにも思います。もちろん、そうなったのは浄土真宗の僧侶である私自身の責任でもあるのですが、そういう状況に接して、私は浄土真宗教団は仏教教団のひとつではあるが、「浄土真宗の独自性」をいっそう明確にすることが必要な時代、そして社会であると思うようになりました。

別の表現をすれば、私はいつも「み教えを依りどころにした人生を」と伝えるのですが、み教えの根本といえる「お浄土」が「死後」のことという理解があり「人生」と繋(つな)がりにくいのです。つまり、「生前」と「死後」が続いていることがわかりにくくなった時代であるように思うのです。

私は入寺して25年になりますが、10年目頃に「合掌ができない(合掌をしらない)子どもたち」に出会ったことがきっかけで、4年前に『合掌ができない子どもたち』(白馬社刊)を出版しました。

そして、それが縁となって本願寺出版社から「その本の内容を踏まえて、新たに執筆を」という依頼をいただきました。ほうわ・HOWA・法話シリーズ『合掌ができる社会へ』です。

前の本では「合掌ができない子ども」は、「合掌ができない大人(社会)」が作ったことを書きましたが、それは「お浄土が見えなくなった」ことと重なります。

今回の執筆依頼を受けて、この機会に「み教えを依りどころにした人生を」というときの「み教え」と「人生(社会)」の内容をあきらかにしようと思い、そのことを書きました。

「心身ともに健康」を願いながら「身の健康」に必死になる一方、「心の健康」は「癒(い)やし(パワースポット)」に陥(おちい)っている現代社会の様子などにも触れ、『合掌ができる社会へ』を書き上げました。

お浄土?それは、私が心身ともにこの世を力強く生きる世界です。

義母が亡くなって7年になります。きょうも「お浄土があってよかったね」の声が私に響いてきます。

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