仏法に照らされて

本願寺新報 2015(平成27)年8月20日号掲載
松原 浄海(まつばら じょうかい)(愛知・圓慶寺住職)

「乗せて」いただく私

カット 林 義明

「主人は毎日、正信偈をおつとめしてお念仏申しておりましたが、お浄土に参って仏となれましたでしょうか?」

先日、ご主人を亡くされた方から、このような相談を受けました。私はこう申し上げました。

「大丈夫ですよ、ご主人は先の列車に乗られただけです。

阿弥陀さまは、生死(しょうじ)のことについて全く無力な私たちをいつも包み込んでいてくださいますから、必ず摂取不捨(せっしゅふしゃ)(摂(おさ)め取って捨てない)の利益(りやく)にあずかります。ですから、今生(こんじょう)の命尽(つ)きた時、必ず仏とならせていただくのです。そして、私たちも同じ本願力によって、阿弥陀経にある倶会一処(くえいっしょ)(倶(とも)に一つの処(ところ)で会う)なのだと喜べるのです」

後日、奥さまから「あれから心が落ち着きました」と聞かせていただきました。きっと、奥さまにも阿弥陀さまのお喚(よ)び声が届いたのでしょう。

親鸞聖人の『高僧和讃』に、「生死(しょうじ)の苦海(くかい)ほとりなし ひさしくしづめるわれらをば 弥陀弘誓(みだぐぜい)のふねのみぞ のせてかならずわたしける」(註釈版聖典579ページ)とあります。

阿弥陀さまの弘誓の船は、私が「乗って」ではなく、阿弥陀さまが「乗せて」ですから、私がいつどのようにあっても必ず乗せてくださるのです。これは、正に私が阿弥陀さまに抱(いだ)かれているからこそです。私たちは、生死について全く無力ですから、ただただ「あなかしこ あなかしこ。有り難いことです、もったないことです」といただくばかりです。

つかめない信心

この春、89歳になる母が介護施設に入所しました。見舞いに行くと母は決まって言います。

「忙しいから、体に気をつけて早く帰りなさい。帰り道は気をつけなさい」と、自分のことで精いっぱいなはずなのに、私のことばかりを気にかけるのです。そんな母の思いに接するたびに、親は子どもが何か言う前に察して、心配してくれているのだなあと思わずにはいられませんでした。

そんな私を、真に支えてくださる本当の親こそ阿弥陀さまです。阿弥陀さまは無条件で私を救ってくださいます。「そのまま救うから我(われ)にまかせよ」と常に私に寄り添い喚(よ)び掛け続けてくださっているのです。

この喚び声が私の心に至り届いた時、私の自己中心的な本当の姿が明らかになりました。そして、今まで私は自分の命を大まかな意味でしか捉えることができませんでしたが、そんな私が、永遠の「いのち」の中に生かされてあったんだと気付かせていただいたことです。

主役は私ではなく阿弥陀さまです。私は常に阿弥陀さまに抱かれているのです。たとえこの身が病気であっても、貧しくても、人がどう思おうと、すべて「おかげさま」と受け入れることができるのです。

この仏法に照らされ、名号(みょうごう)(南無阿弥陀仏)が私に至り届いたことを、真実信心をいただいたと申します。親鸞聖人は「念仏のみぞまこと(真実)にておはします」といわれ、名号すなはち信心と示されるのです。

それを不実(ふじつ)(真実と反対)である私が、「マコトノココロ」である信心を得よう、取ろうとすると、不実な私が主体となりますから、信心に疑いが生じてしまうことになります。

蓮如上人は、『御一代記聞書』(ごいちだいきききがき)(同・1259ページ)で、ある人から「私の心はまるで籠(かご)に水を入れるようなもので、法話を聞いている時は有り難いのですが、その場を離れるとたちまち元の心に戻ってしまいます」という悩みを打ち明けられます。

これに対し、「その籠を水の中につけなさい、わが身を仏法の水にひたしておけばよいのだ」と上人はおっしゃいます。

真実信心をいただくくとは、「私」がつかむものではなく、疑いのない「仏法(信心)」に素直につからせていただく方向なのです。

私は、この阿弥陀さまのご信心につからせていただくということを、正信偈の最後にある「道俗時衆共同心」(どうぞくじしゅうぐどうしん)で味わっています。僧侶でも、一般の方でも、今ここに生きるすべての人々が共に同じ阿弥陀さまのご信心につからせていただくことによって、煩悩を断(た)たずして、皆ともに救われていくお心だと、いただいております。

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