生きる意味って何ですか

本願寺新報 2015(平成27)年10月 1日号掲載
野呂 靖(のろ せい)(龍谷大学専任講師)

人とのつながりの中

カット 林 義明

「生きる意味ってどこにあるんですか?」

縁あって仲間とはじめた「NPO法人京都自死・自殺相談センター」が今年で6年目を迎えました。6年の間にさまざまなご相談を受けましたが、私がもっとも印象に残っているのが、この言葉です。

「こんな苦しい状況で生きていて意味があるんですか?」

「私に生きる価値はあるんでしょうか?」

いままさに「死にたい」と考えておられる方からの問いかけに、私はすぐにお応(こた)えすることができませんでした。

いったい、自分の存在の意味や価値はどのようなときに感じられるのでしょうか。

3年前、こんな出来事がありました。事務所に若い男性が相談に来られました。その日、事務所は刊行物の発送作業が重なっており、多くのボランティアでにぎわっていました。その片隅のソファで向きあい、お話に耳を傾けます。

1年前に両親を亡くされたその方は、仕事も見つからず一人ぼっちで「生きる意味」を見いだせないこと、そしてこの面談の後に自死するつもりであることを途切れ途切れの声で話されました。固い決意の前に、内心焦りが募ります。その時です。切手貼(は)りをしていたボランティアの一人が、大量の封筒を前に「人手が足りないなあ」と漏(も)らしたのです。

私は「あっ」と思って、恐る恐る相談者の方に「もしよかったら一緒にお手伝いいただけませんか」と尋ねました。

すると「私でよければ」と快諾され、半日にわたり一緒に作業をしてくださいました。そして帰り際、数人のボランティアから「本当に助かったよ、ありがとう」とお礼を言われると、「また来てもいいですか。人手がなければいつでも言ってください」と、明るい表情で帰られたのです。

「自分の命のかけがえのなさ」や「大切さ」。それらは「自分自身」をどれほど見つめていってもなかなか感じられるものではありません。見つめれば見つめるほど、取るに足りない自分が露(あら)わになってくる場合もあるでしょう。そうではなく、私たちは「誰かにとって必要とされること」「大切な存在であること」、つまり「他者」とのつながりのなかでこそ、はじめて「自分の大切さ」が実感できるのではないでしょうか。私は相談を通して、そのことにあらためて気づかされたのです。

私へのよびかけ

大乗仏教の経典には、「インドラの網(あみ)」という有名な譬喩(ひゆ)が示されています。インドラとは、仏教では帝釈天(たいしゃくてん)という名で知られている古代インドの神様です。その宮殿の天井を飾っている網の結び目の一つひとつには宝珠(ほうしゅ)が結(ゆ)わえられており、それらがちょうど合わせ鏡のように互いに互いを映(うつ)し合い、どれか一つの宝珠をとりあげれば、そこにはその他すべての宝珠の姿が映し出されているというのです。

孤立し、ひとりぼっちで生きているかに見えるこの「私」は、実際には、さまざまな他者とわかちがたく結びつき、かかわり合いながら生きているということ――。それこそがこの世界における真実のあり方であるというのです。「生きる意味」を見失いかけたとき、「あなたが必要だ」「あなたはここにいていいんだ」という他者からの「よびかけ」こそが、そうした関係性を「再発見」させていくのではないでしょうか。

親鸞聖人は、阿弥陀さまのお救いについて、『浄土和讃』で次のように讃(たた)えておられます。

十方微塵世界(じっぽうみじんせかい)の
 念仏(ねんぶつ)の衆生(しゅじょう)をみそなはし
 摂取(せっしゅ)してすてざれば
 阿弥陀(あみだ)となづけたてまつる
       (註釈版聖典571ページ)

あらゆる世界のいのちあるものに対し、光明のなかにおさめとって捨てることがない阿弥陀さま。その「よび声」は「南無(なむ)阿弥陀仏」のお念仏となって、今この私のもとに届けられています。さまざまな問題に悩み、孤独を抱(かか)え、ときには死をも考えるこの「私」に対し、よびかけつづけ、見守りつづけてくださっているということ。ここに、「生きる意味」を支える確かなはたらきがあると気づかされるのです。

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